2 恋に落ちる音

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2 恋に落ちる音

 俺が冬磨と出会ったのは半年ほど前。  新卒で入社した会社にもだいぶ慣れ、やっと余裕が出てきた十二月の終わり。  仕事納めのあと、人生でまだ一度も出会ったことのないゲイ仲間、あわよくば恋人候補を求め、俺は初めてゲイバーの扉を開いた。  一人で行くのは心細くて、大学からの親友で今は同僚でもある敦司(あつし)に「一緒に行って! お願い!」と頼み込んだけれど見事に断られた。  敦司はゲイの俺を理解してくれている唯一の友達。こんなことを頼める人は他にはいなかった。 「出会いの場に俺がいたらだめだろ」  とあきれる敦司に「最初の一回だけ!」「酒代おごるから!」と泣いて頼んだけれどだめだった。  一人で心細い上に、未知の世界すぎて怖いのとで、俺はカウンターの端で顔を上げることも出来ない。  ちびちびと一人寂しく酒を飲んでいれば、隣の会話が嫌でも耳に入ってきた。   「で? お前いま相手何人いるんだ?」 「何人……わかんねぇ。何人だろ」 「マジか。あいかわらずゲスだな」 「なんでだよ。合意の上なんだからゲスって言うな」  俺には想像もできないすごい会話に、瞬きの回数が増えていく。 「そろそろ一人に絞れよ。そのうち刺されるぞ?」 「だから俺に本気の奴は相手にしてねぇって。病気だって怖ぇし、そういうのちゃんとしてて割り切ってヤレる奴だけ選んでる。てかもう充分。新しい子はもういらない」 「うーわ。やっぱゲスだわ。……でもさ、わかんねぇじゃん? 気持ち隠してるかもしんねぇよ?」 「目を見ればわかるよ。大丈夫」  聞けば聞くほど気になった。セフレが何人いるのかも把握できないほどの遊び人……。いったいどんな人なんだろ……。  好奇心には勝てなくて、こっそり隣を盗み見る。  どちらが遊び人かと問う必要もなく、真横の彼がそうであることは一目瞭然だった。その横顔から放たれる美しさは圧倒的だ。友人との会話に時折微笑む彼に、俺は完全に心を奪われた。盗み見ているということも忘れ、ただただ見惚れた。  そんな風に惚けていたら、うっかりグラスを倒して膝の上に派手に酒がこぼれた。 「うわっっ!!」  思わず叫んで濡れた膝を見た時、彼が驚いて俺に振り向いたのが気配でわかった。  もう顔を上げられない。 「え、ちょ、大丈夫っ? マスター! タオルタオル!」  彼の呼びかけに店の人がタオルを持ってきて、俺ではなく彼に渡した。  いや、俺にくださいっ! 「うわ、びしょびしょじゃんっ」  彼が濡れた膝をタオルで一生懸命拭ってくれる。  タオル越しの彼の手にすら意識していたのに、ふいにもう片方の手が俺の腕にふれ、心臓が跳ね上がってパニックにおちいった。 「あ、あのっ、すみませんっ、ごめんなさいっ、すみませんっ」  壊れた機械のように何度も頭を下げて謝る俺に、声を上げて彼が笑う。 「そんな謝んなくても。あーあ、かなり濡れちゃってるけど帰り大丈夫? 外、吹雪だよ?」 「だ、大丈夫ですっ。全然大丈夫ですっ」  身体が火照ってむしろ暑いくらいですっ。  彼の顔を正面から見てみたかったけれど、顔を上げる勇気が出ない。 「ははっ。うん、まぁ風邪引かないでね?」 「はいっ。すみませんっ」  そこで俺は重大なことに気がついた。 「あっ!」  と声を上げて、慌てて彼のスーツを凝視する。 「あなたは濡れてませんかっ?!」 「え? ああ、全然大丈夫だよ」 「ほ、本当にっ? 良かった!」  安心して、うっかり顔を上げてしまった。彼を正面から見てしまった。  彼の優しげな笑顔が視界に飛び込んできたその瞬間、彼の瞳に吸い込まれてしまったかのように、周りのざわめきが聞こえなくなった。彼以外の何も見えなくなった。  身体中がビリビリとした感覚に包まれる。まるで雷に打たれたかのような衝撃が走った。  今までの人生で、これが恋かもしれないと思ったこともあった。でも、それはまったく違った。恋じゃなかった。  これこそが、恋をするって事なんだと理解した。  ふいにさっき耳にした言葉を思い出す。『目を見ればわかる』彼はそう言っていた。  俺はハッとして、慌てて彼から視線を外し下を向く。 「あ、あの、ありがとうございましたっ」 「こんなの気にすんなって。大丈夫? 寒くない? 風邪引くなよ」  彼の優しい声と言葉に酔いしれそうになる。胸が苦しくて涙が出そうになった。 「か、風邪引くと困るのでもう帰ります」 「だな。雪すげぇから走って帰れよ?」  顔を見なくても、彼の優しい笑顔が見えるようだった。  店の人にタオルを返し、床を濡らしてしまったことを謝罪して、俺は急いでバーを出た。  彼が視界から消えると少しだけ心が落ち着いた。  ビルの三階にあるバーだった。ゆっくりと歩いてエレベーターに向かったけれど、思い直して階段を使う。  どうしよう……。実るはずもない恋をしてしまった。 『本気のヤツは相手にしない』 『新しい子はもういらない』 『目を見ればわかる』  彼の言葉が次々と思い出される。  希望はどこにもない。早く帰って頭を冷やしたい。まだ間に合うかもしれない。  ビルの外に出ると、彼が言っていた通りひどい吹雪で視界も悪かった。  店に来た時はそうでもなかったのに。こんな日に限って傘も持ち合わせていない。  諦めて走り出そうとした時、後ろから聞こえてきた声にまた俺の胸が高鳴りを上げた。 「おーい、マフラー忘れてんぞっ!」 「……えっ」  思わず首元をさわって確認した。本当だ。マフラーがない。  慌てて振り返ると、また視界に飛び込んできた彼の笑顔。 「お前、ほんとおっちょこちょいだな」  彼はおかしそうに笑いながら、俺の首に優しくマフラーを巻いた。 「あ……ありがとう……ございます。すみません……」 「今日はマフラー必須だろ。首凍るって。俺に感謝しろよ?」  彼のまぶしい笑顔に、胸の中で何か重たいものがゴトンと落ちた。  完全に彼に落ちた瞬間だった。    
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