悲しみの始まり

4/4
前へ
/38ページ
次へ
「言えない……言えばあの人は私のために全てを捨てちゃうから。治療にはお金も根気も必要で、家族の支えが無きゃだめなんだって……でも……それでも延命しか出来ないの。ほんの何年かの私の命のために、靖彦に全てを捨てさせたくない……」 彼は優秀過ぎた……異例の若さで大手企業の管理職、しかもその先を嘱望される人材。 この不況下で一度休職でもしてしまえばキャリアは絶望的。 しかも今は会社がリコールを出して、業績好調な彼の部署はその不祥事を払拭するほどの画期的な新製品の開発を求められている。 ただでさえ過剰労働(オーバーワーク)な状態だ。 ここで逃げたとなれば悪評が立つ、転職するにしろ同業種での再起は難しいだろう。 やっと私にもわかった。 桜の涙は己の不幸を嘆いているのではなく、別れを覚悟した涙なのだ。 彼女は愛した男と離れて、彼の子を産んでそのまま死にたいと願い、その別れを惜しんで泣いているのだ。 「…………産んだって、誰がその子を育てるのよ」 「兄夫婦が居るの。まだ結婚したばかりだけど、引き取っても良いって」 もうそこまで全ての段取りを彼女は用意していたらしい。 本気なんだ……本気で一人きりになる覚悟を決めたんだ。 「まだ婚約中の今なら、籍の入ってない今なら……自由にしてあげられるの………」 全ては愛する人の為に。 それだけの為に自分の幸せを捨てて…… 泣き崩れる彼女を見て、私も涙した。 友の命がもう長くないから……勿論その気持ちはある。 でも、私が泣いたのはそれだけではない。 私はそれだけを思えるほど綺麗な人間ではなかった。 羨ましくもあったのだ。 それほど一途に愛せる相手と巡り合った彼女が。 そして誰のことも一途には愛せない自分を憐れんで涙を溢した。
/38ページ

最初のコメントを投稿しよう!

35人が本棚に入れています
本棚に追加