第9章 決別

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第9章 決別

その後事態は急展開、とはいかず。しばらくはそのままゆるゆると平和な日々が続いた。 その頃の高橋くんの日常はといえば。例えばある日はわたしと一緒に家畜舎を見学し、食肉工場を視察して。合間の折々に畑や田圃を見に行きその時季の作物の出来を確かめ、農作業中の人がいれば話しかけて上手いこと収穫量やここ数年と今年との違いを聞き出す。 鉄屑を集めて打ち直す工場や日用品を手作りする作業場、水道管理所や浄水場なんかも見学に行った。それから各職場や家庭で飼われている犬たちを訪問するのに加えてもちろん、集落のところどころに存在するいくつかの猫だまりも。 「うぁー可愛い…。けど、やっぱりみんな触らせてはくれないんだなぁ。得体の知れないよそ者の男だから。それは仕方ないのか…」 生存本能だもんね、と名残り惜しそうに呟きながら。地面すれすれに座り込んで飽かずにずーっと眺めてる。放っとくと半日くらいはそれで過ごせそう。 餌はそれぞれの家庭でもらうから中途半端にあげちゃ駄目。下手に満腹にさせちゃうと鼠全然獲らなくなっちゃうからね、とわたしが言い聞かせたので。必殺最終手段の美味しい餌で釣る、という手が使えないのは気の毒ではある。けど、一応それがこの集落内での猫様の存在意義ではあるので。 あんまり近づくと蜘蛛の子を散らしたように四散してしまうけど、ほどほどの距離なら視界に人間がいても大丈夫。集落の猫たちは人に意地悪されることがないので別に怖がってるわけじゃない。ただしつこく撫で回されたりせっかくゆったり休んでるところを無闇やたらと構われ過ぎるのが面倒で、程よく距離を置いてるだけなのだ。 梢の切れ目から差し込むきらきら輝く日光と爽やかな初夏の風の通る猫が好む場所。三毛やら縞虎やら白黒ぶちやらがうにゃうにゃと目を細めてごろごろ集うその光景に、天国だぁ。とうっとりしてる高橋くんこそ。わたしの感覚からするとかなり変わってる気がする。 「…今いちよくわかんないんだけど。外の世界って、もしかして猫いないの?実はもう絶滅寸前で、こんな風に普通にその辺でうろうろはしてるもんじゃない貴重な珍しい生き物だったり、とか?」 隣に一緒にしゃがんで試しに訊いてみる。彼は目線をすぐそばの鯖猫に釘付けにしたまま、首をゆるゆると横に振った。 「もちろんそんなことない。猫は世界中どこでも健在の、現役殿堂入りもふもふ可愛いのホームラン王だよ。…でも、そうだね。こういう風にゆったり表でごろごろして寛いでる大量の猫だまりを見る機会はめっきりないよなぁ。そもそも野良猫が少ないもん…」 まあ、聞くところによると。今でも地方ののんびりした環境の島とかに行けば、山ほどの地域猫がうろついてるところとか。日向ぼっこするたくさんの猫団子とかが見られるらしいけどね、とわけのわからないことを付け足す高橋くん。わたしはどうにも釈然としない思いで首を傾げた。 「つまり、街中を普通に歩いてる猫はもう見られないってこと?田舎の地方に行かないと猫が住める環境ってなくなってるんだ。てか、島とか。どうやって行くの、そんなとこ。高橋くんは行ったことある?そこで猫とか。もしかして人にも会った、…とか?」 また頭がぐるぐるしてわかんなくなって考え込んでしまう。そもそも外がどうなってるかまだきちんとした説明を受けてないから。 わたしや集落の人たちが考えてたような不毛の廃墟で他人の住めない毒に侵された世界ではない、というのはどうやら確からしいが。それにしてもここほど豊かな自然がいっぱいの恵まれた環境でもないらしい。 だとしてもわざわざ田舎の島まで行かないと猫がごろごろしてるのが見られない、ってのは一体どういうことだ。都会の街は猫がゆったり住むには厳しい場所だけど、人の少ない地域に行けば野生の動物がたくさん繁殖してる。ってのはまあわかるからそれはいい。 問題は高橋くんはあえてそんなところまで自分で足を運んで調査してるのかってこと。島って、海を渡って行かないといけないわけだよね?移動手段は何なんだ。まさか、泳いで渡る? そんなことをうにゃる猫たちを眺めつつぶつぶつと呟いてると。独り言めいたその内容を聞きつけた高橋くんが、ふとわたしの台詞に対して反応した。 「純架ってそういえば。泳げる?」 「いやまさか。泳ぐ人なんていないよ、うちの集落!」 青くなって即座に否定したが。そこではた、と改めて考えて気づいた。 「もしかして。…高橋くんて、泳げるの?泳いだことある、海とかで?」 彼は全然何でもない当たり前のことみたいな顔でけろりと答えた。 「うん、あるよ。なかなかいいもんだよ。ここなんて、海の水見た感じすごく透き通ってきれいだから。気持ちいいだろうなぁ、今日みたいな暑い日とかは…」 「はぁ」 わたしは曖昧な返事をして、実に健康そのもので生気に溢れたそのつやつや顔を眺めた。 うちの集落の人たちは皆、絶対に海に入りたがらない。魚を獲るときだけどうしようもなく、ごく短い時間にぱぱっと手漕ぎ舟に乗って漁を済ませるのが唯一の生活上の接点なくらいだ。
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