第9章 決別

2/13
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/21ページ
生まれたときから周囲の大人も子どもたちもそうで、それが当たり前だと思ってこれまで生きてきたけど。 そもそも世界大戦のときに撒き散らされ垂れ流された生物兵器の毒や細菌や放射能が海水にはたっぷり含まれている。ってずっと聞かされて育ってきたから、それを事実だと信じ込んできたんだよね。 だけど目の前のいかにも心身共に健全そのものでご機嫌な彼の様子を見てると。現代のこの海で泳いだくらいで、人間ってそう簡単に健康を損なわれたりはしないようだ。 これまで何回海に浸かったことがあるか知らないけど。泳げるってことは、少なくとも練習する機会を充分持ったって意味だろうから一回や二回烏の行水みたいにぱしゃぱしゃ軽く浴びてみただけ、ってことはないだろう。おそらくがっつり頭から尻尾まで海水に浸った経験が何度もあるはず。 「…海に入ったあと。身体の調子悪くはならなかった?急に気分悪くなったりとか」 わたしが用心深く尋ねると、高橋くんはあっけらかんとした声で明るく答えてくれた。 「あ、そうか。ここでは海の水は身体に毒だって考えられてるんだっけ。全然そんなのなかったよ。特に最近は、だいぶ日本の周りの水質って向上してる気がする。すぐそこの海だって。青々とした透き通った水の下に、綺麗な白砂がくっきり見えてさ…」 残念だよねぇ、人目を気にしなければ毎日めっちゃ泳いじゃう。ちょうど梅雨も明けて暑くなり始めた頃だしさ、と無邪気に捲し立てる彼にわたしはつい突っ込んだ。 「見た目がきれいだからって身体にいいとは限らないよ。そもそも放射能とかだったら目には見えないじゃん。…けどまあ、経験上海水は人体に問題ない。と判断してるわけだ、高橋くんとしては」 「うん。でも、集落の人たちが海に忌避感を持つのは致し方ないと思ってるよ。ずっとそう考えてそれを皆で信じてきたんだから。感覚的なものだけに、簡単には覆せないよねぇ…」 物分かりよくそう付け加える。 そうかなぁ。放射能とか未知の化学物質とか含まれてても、即効性がないから自覚症状がまだ出てないだけかもしれないじゃん。…と考えたけど。それをあえて彼の前で口にするのはやめた。 何となく、集落挙げて不合理なことを長年集団で信じてきた。と認めるのが癪だっていう負け惜しみみたいに思われそうだったし、自分でもちょっとそんな気がしないこともなかったし。 ふと思いついて試しに問いかけてみる。 「…もしかして。ここから出て行くのに、経路は海ルートを考えてる?あなた一人で脱出する分にはそれでもいいだろうし止めたりはしないけど。それでわたしがついて行けると思ったら甘いよ。そもそも泳げないし、今から泳ぐ練習するのも…。海でそんなことしてたら。親や近所の大人たちが絶対、血相変えて止めに来るってば」 彼はわかってる、といった顔つきでおっとりと笑った。 「大丈夫。さすがに君を今から長距離泳者に仕立てられると自惚れるほど俺も甘くはないよ。それにこの海水に健康を損なう成分は含まれてません、と皆を説得できる術もないからね。もしもきっちり科学的な分析結果を差し出せたとしても。人の生理的拒否感って必ずしもそういう手段で消せるわけじゃないから…。集落の中って、泳げる川とかもないの?」 やっぱり泳げる場所探してるじゃん。と内心で突っ込みながらも素直に答えた。 「流れが急だし、そもそも岩場が多いからね。危ないから子どもたちだけで川に入るのは禁止。それに、泳ぎを覚えられるような場所でもないよ。流れは速いし川幅は狭いしで、川岸でぱしゃぱしゃ水遊びするのがせいぜいって感じ」 「うーんそっかぁ…。まあ、別に何とでもなるけどね。ただ、泳げなくてもいいけど、純架はもちろん」 群れから逸れて気まぐれににゃぅーん、とこっちに寄ってきた子に向けて地べたからぶつり。と引っこ抜いた猫じゃらしを振ってあげる高橋くん。その雉子猫にすっかり視線を吸い寄せられたまま、口だけはこっちに向けて話の先を続けた。 「でも海の水は人体に致命的な毒で触れたら大変なことになる、って先入観だけは取り除いておいて。集落の他の人がどう思っててもいいから、君だけはね。そうしないと詰むことになるから…。大丈夫、理性を働かせればすぐ納得いくはずだよ。考えてもみて?」 高橋くんの振る猫じゃらしに関心を惹かれたようにニ、三匹の猫たちが寄ってきた。 興味津々で小さく前足を出して目線を向けてる彼らにうっかり片手を伸ばしてしまい、察した猫たちがすっと身を引いて離れていく。あーあ、とがっかりする高橋くんのことを珍しく子どもみたいだな、と思った。可愛さに負けて思わず手が出ちゃった。みたいな。 あとでうちに帰ってクロウがいたら、今日はあなたが餌あげてみたら?とフォローするとありがと。と素直に頷き、立ち上がってぱんぱんと軽く膝についた土を払う。 それから威厳を取り戻すかのように、やけにきっぱりとした態度でさっきの台詞の続きをようやく口にした。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!