第9章 決別

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「だって、本当に海水が毒なら。そこで獲れた魚や海藻だってどう考えても身体にいいはずない。恐々とでも遠慮がちな量だけでも、長年それを食してきた君たちのコミュニティがこれだけ充分に健康を維持できてきたはずがないんだ。だから、海の水が人体に害じゃないってことは。他ならぬ君たち集落の住人の今の状態がとっくに証明してるってこと。…さ、そろそろ行こうか。もしかしてここにいるかもと思ってたけど。どうやらうちのクロウはとっくに先に家に戻って、俺たちの帰りを待ってるのかも、だよ?」 そんな風にすっかり家族の一員みたいな顔して、自然な成り行きっぽくすんなりと我が家に出入りしている高橋くんを。もちろんのこと、あいつが快く思っているはずはない。 その日はうちの室内の片隅の涼しいところでふっかりと寝ているつやつやと真っ黒なクロウを帰宅して発見し、わぁと顔を輝かせて喜ぶ高橋くんに釘を差したわたし。 「せっかく寛いでるからわざわざ起こしたりしちゃ駄目だよ。ここじゃ落ち着いて寝られないってふっと出て行っちゃう。…このまま夕方まで寝ていてくれたら、起きた頃にはちょうどお腹空いてるかもね。そしたらわたしかお母さんじゃなくても。誰の手からでも文句言わずにご飯もらおうとするんじゃない?」 この子は普段わたしか母から餌をもらう習慣になっていて、そのせいかあえて可愛い声と顔つきでご機嫌伺いににゃーんとすり寄っていくのはその二人に対してだけ。 父はあえて猫にべたべた自分からくっつかずに程よく距離を置いているが、そういう風に自身の立ち位置を弁えてる人間は大抵猫の好物なので。気がつくとダイニングやリビングでのんびり座っている父の膝で、丸くなってクロウが寛いでるのはあるあるな光景だ。 厄介なのは猫を可愛がりたくてうずうずしてる落ち着かない人たち。麻里奈が完全にその類いで、さらに始末が悪いのはご飯やトイレや蚤取りなどの世話は全くしようとしないのに、自分の気の向いたときだけ撫で回そうとしたりじゃらして構おうとしたりするところだ。 つまり、もっとも猫たちが忌避する人種そのもの。麻里奈自身は自分の振る舞いが招いた結果そうなってるという自覚がまるでなくて、お姉ちゃんが餌であの子を釣ってるから。と恨めしそうに何度か文句を言われた。そう思うなら、たまには早起きしてフードを出してあげなよ。などとあえて指摘するのも面倒で聞き流して済ましている。 さてクロウからすればおそらく正直なところ、時折気の向いたときにやってきては特にお世話などもせずに遊ぶだけ遊んでほしい。って接し方な高橋くんも、麻里奈と同じジャンルの人物と受け止めていておかしくない。 だから、ただ猫じゃらしで構ったり寝ているところをそーっと近づいて恐るおそる撫でにくるだけの人間じゃないよ。ちゃんと餌を用意したり水を換えたりもするよ。とアピールするのに今日は絶好のチャンス。 わたしは彼の好きなフードと猫皿を渡して、しっかりと高橋くんの目を見つめて励ました。 「麻里奈になるかわたしになるか。その別れ道が今日だよ。ただ遊びたいだけの家の末っ子の同類と思われないために、グッドタイミングであの子にご飯を用意しなきゃね。この人気が利いてる!って好きになってもらえること間違いなしだよ」 「…あんなこと言ってる。どうせあたしはお姉ちゃんみたいに猫に好かれてないのは、事実だけどさ…」 リビングのソファにもたれてちょっとだらしない姿勢で寛いでた妹がその台詞を聞きつけて、早速不平を述べてきた。 「でも、末っ子だからって侮られてるのはわかる。ペットってさ、その家で一番歳下の子のいっこ上だって認識するらしいよ、自分のことを。その感じで言うと高橋さん、わたしのさらに下の子だと思われてるんじゃない。ここに来たの一番最近だもん」 「う。…そうなのかなぁ。一生懸命工夫して頑張って猫じゃらし振っても。しらっとした顔でするんと横通って去っていっちゃうんだよね。猫またぎ、とはああいうことかと」 そんな風にわいわい喋ってるところに母がキッチンから顔を出して、あなたたちちょっとそろそろこっち手伝ってよ。と言いかけたそのとき。 「…純子さん。あいついる?」 ちょっとくぐもった低い声がキッチンの勝手口の方から聞こえてきて、ひや。と腹の底が久しぶりに冷えたような感覚に陥った。 声を耳にするまですっかりその存在が頭から飛んでいたわたしもお目出たいことこの上ないが。ここ数週間、向こうから訪ねてきたり声をかけてきたりもなかったのでそれをいいことに完全に存在を失念してた…。 面倒くさいなぁ、母が適当に理由をつけて追い返してくれないかな。と虫のいいことを考えたけど、もちろんそんな忖度をしてくれるような気の回る人じゃない。 「あら、なんか久しぶり夏っちゃん。もしよかったらここでご飯食べて行きなさいよ。最近全然こっちに顔出さなかったじゃない。忙しいの?お仕事の方」 そう応じる母は以前と全く変わらない態度のままだ。わたしが顔を上げると、もの言いたげな麻里奈の目とばっちり目線がかち合った。
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