①怒りと嘆きと酒の夜は…

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 今年(2021年)の夏、俺は偶然だが、村木が以前勤めていた三方原の加工工場で働き、あの腰抜けが、どうしてそこを辞めたのか、それを調べていた。  それは“哀しいおじさん”の末路だった。  何となくだが、もうあのじいさんに関わりたくなかったのだ。  そんな村木が、奇跡的に認知症(まだらボケ)から回復し、ユニックス(病院厨房の食器洗浄)に復帰する、という。  もう勝手にしろ、だ。それもまた謎のままだが。  それを聞いて俺は馬鹿馬鹿しくなり、思わず、退職を村木の妻に出してしまった。  俺はもう43だ。  いつまでも、こんな病院清掃の派遣で食いつないでいる場合ではないだろう。  後輩の伊島は、『いつまで、そうしているのですか?』と、そう言いたいのだ。こいつなりに俺を心配しているのだろう。  だが、伊島の会社もまた“非正規”の派遣会社だ。そこに登録しても、派遣の登録先をユニックスから、伊島の会社に変えるだけだ。  それは俺の状況への根本的な解決になるのか。    俺は、そこにも馬鹿馬鹿しさを感じた。    「鈴木さんがその気なら、連絡、下さいよ…」  伊島は少し怒ったように俺に告げて、ちゃんと家の支払いをしていた。帰るようだ。  「…実は、嫁が“これ”で」と伊島は腹部を覆うように両手を動かした。  去年、結婚した伊島に子供が出来たようだ。  40を過ぎて結婚した伊島に、ついに子供が出来たようだ。  彼が、八丁目ではなく、軽く飲めるこの『ちゃんと屋』を選んだ理由が分かった。  嫁が身重だったのだ。  つまり、いつでも帰ることができる。  俺は後輩が俺から“遠くなっていく”感じがした。  誰もが変化する。  俺だけが、あの病院に囚われいる気がした。  (…)  何とも言えない寂寥と嘆きが俺の中に渦巻いた。  やはり伊島の『いつまで、そうしているのですか?』という声なき質問が、俺の中で巡りだしている。  俺たちはちゃんと屋の暖簾を出た。  伊島は、「その気になったら連絡下さいよ」と言って、帰っていった。
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