11人が本棚に入れています
本棚に追加
/145ページ
「えー……、じゃあここの例文。訳してみなさい。萩原 ぁー、萩原訓!」
荻原 訓、だ!
昼下がりの教室の真ん中。
小一時間前に摂取した昼食の消化もままならない、ぼんやりとした意識の中で、俺は通算何度目か分からない心の叫びをあげた。
「……えー、『私が駅に着いた時、彼女は既にいなかった』」
「正解だ! ここは過去完了形が使われているからな。よく出来た。流石だぞ! 萩原 訓!」
俺が立ち上がり答えると、スペイン語講師の神戸は性懲りもなく、えびす顔で俺を褒めそやす。
この男の間違いは、今に始まったことではない。
オリエンテーションの出欠確認の段階から、俺の名前を『ハギワラ サトシ』だと認識している。
ルビくらい振っておけ……。
結局、俺は指摘しなかった。
所詮は、大学の授業の数ある内の一コマ。
この講師とも、語学クラスの連中とも、未来永劫馴れ合うつもりはない。
そう思うと、わざわざ講義を中断させてまで訂正するメリットを感じなかった。
ただ、それだけのことだ。
以来、この教室で俺の名前は『ハギワラ サトシ』として、すっかり定着してしまった。
こんなところにも、俺の諦観は現れている。
「ん? どうした〜? セニョール萩原ぁ〜」
ぼんやりとその場に立ち尽くす俺に、神戸は白々しい敬称を付帯させ、呼びかけてくる。
「い、いえ。何でもありません」
「疲れてるのか? あんまり無理すんなよ! 萩原っ!」
神戸はそう言うと、得意げに笑いかけてくる。
『訓』などと、捻くれた漢字を看破した満足感もあるのだろう。
俺は神戸から、妙に気に入られてしまっている。
これみよがしに心配してくれるのは有り難いが、彼にはまず『訓』以前に重大な過ちを犯していることに気付いて欲しいものだ。
無論、そんなことはいくら俺がこの場で渋い顔をしようとも、当の本人には分かるはずもないのだろうが……。
「あ。はい……。すみません」
神戸の呼びかけに我に返った俺は、辺りを見渡す。
流石は、大学といったところだ。
俺と神戸が下らないやりとりを繰り広げる中、『我、関せず』とばかりに漫画にソーシャルゲームにと、皆それぞれ内職に励んでいた。
そんな有象無象を横目に、俺はゆっくりと席に腰を下ろす。
大学生とは実にお気楽なものだ。
親が稼いだ金で飲み、食い、惰眠を貪り、挙げ句の果てには女遊び。
もちろん、全部が全部そうだと言う気は更々ないが、勝手気ままに放蕩するその姿は、さながら現代の貴族だ。
若い時分を無為に食い潰せる彼らと、日々金と時間に追われている俺とでは、そもそも住む世界が違うのだろう。
「……どうして訂正しないの。オギワラサトル」
耳を疑った。
俺の左横から、有り得ない言葉が飛び込んできた。
この語学クラスに、俺の正しい名前を知っている人間は一人もいないはずだった。
俺は恐る恐る、その声の出処に顔を向ける。
「あれ? オギワラ サトル、だよね? キミの名前」
振り向くと、俺の隣りの席に座る女が、その大きな目をまん丸にさせていた。
末端にかけてウェーブが施された、ハイトーンブロンドカラーのセミロングヘア。
ゆるく着こなした薄手の白ニットに、紺のスキニーパンツ。
ブランド品とは言えないまでも、小綺麗に統一された装飾品やハンドバッグも相まって、全体的にこなれ感がある。
これがいわゆる『何系』に分類されるのかは知らないが、見た目に関して、ひと手間もふた手間もかけていることくらいは理解できる。
人を見た目で判断するのはどうかと思うが、如何にもなTHE・女子大生だ。
……などと、やたら親父臭いことを考えてしまうのは、同年代の人間とあまり接点がない弊害なのかもしれない。
しかし、こうして改めて見ると俺の苦手なタイプだ。
隣席で、普段から嫌でも視界に入ってはいたが……。
そんな俺の心境を他所に、彼女はその顔のキョトン具合を強める。
「……なんで知ってんだ?」
「キミ、駅前の居酒屋でバイトしてるでしょ? ネームプレートにご丁寧に振り仮名ふってあったじゃん。何あれ? 先生への当てつけ?」
「んなわけねぇだろ。他ならぬ、お客様がクレーム入れやすくするため、だろうよ」
「ぷ。ナニそれ? つーかさ……。『訓』はともかく、『のぎへん』と『けものへん』の違いくらい分かるっしょ!」
『よくぞ言ってくれた!』という言葉が一瞬溢れ出そうになったが、俺は慌ててそれを飲み込んだ。
「ていうか……、アンタの方こそ気付きなさいよ。同じクラスでしょ、一応」
「……大学生にもなって、あんまそういうのなくねぇーか? 同じクラスっつっても学部も違うしな」
「まぁ、確かにそうかもね。それよりいいの? 一応訂正しておいた方がいいんじゃない?」
「……今更だろ。もうオリエンテーションからだいぶ時間も経っちまったしな。無駄なエネルギーは使わないようにしてんだよ、俺は。何事もスルーした方が、世の中スムーズに行くってもんだ」
「そ……。諦観ってヤツね。アタシ、アンタみたいなヤツ嫌い」
そう言うと、彼女は不機嫌そうにその目をつり上げる。
何なんだ、この女は。
いきなり声を掛けてきたかと思えば、ズケズケと。
彼女の遠慮のない物言いに苛立ちを覚えた俺は、細やかな反撃を試みることにした。
「……まぁそうだな。諦観だ。生憎、お前みたいに『遊ぶことこそが大学生の至上命題!』だとか思ってそうな輩を相手にしてるほどの時間的余裕も体力的余裕もねぇんだよ。実際、この後バイトが2つあるしな。嫌いっつぅなら、もう話しかけてくんな!」
「ナニ? アンタ、貧乏なの?」
彼女は俺の拒絶を物の見事にスルーし、煽り返してくる。
心なしか嬉しそうに見えるのは、気のせいか。
「……ホントに失礼なヤツだな。あぁそうだよ! 誠に遺憾ながらな! まぁ『もやしを救世主と崇める苦学生』ってところだな」
「ふーん。じゃあ下に見てんだ? アイツらとか、アタシみたいな奴」
彼女はそう言って、俺を真っ直ぐに見据える。
「……下に見てるってわけじゃねぇよ。ただ、何? 不公平だとは思ってるよ。例えばさ。あいつらがいくらやらかしたところで、親とかコネクションの力でお咎めなし、なんだろうな、とか色々考えるとさ……。結局、ああいうヤツらと俺みたいなのって根本的に違うんだよ。なんつーの? 生きていく条件的なモンが」
「そっか……。なんか分かる気がする。じゃあアタシと同じ、だ」
彼女は意味深にそう呟くと、教壇前のホワイトボードに顔を向けた。
それから、彼女が声を掛けてくることはなかった。
最初のコメントを投稿しよう!