不幸

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不幸

「この度はお忙しい中ご足労いただき、ありがとうございます。株式会社他人(ひと)の不幸は蜜の味、代表取締役の田沼 茅冴(たぬま ちさ)と申します」  新井の先導のもと、大学近くの閑静な住宅街の一角にひっそりと聳え立つ、雑居ビルに辿り着いた。  住宅街ということもあって、ココを除いて周囲にはオフィスビルのようなものは見当たらなかった。  4階建ての細長い外観を見上げると、テナントらしき看板などは確認出来ない。  外壁はところどころ苔も生えていて、築年数は周囲の家屋と比べても、大げさに言って年号一つ分ほど違うような印象だ。  それだけその廃れ具合は、他の建物を圧倒的に凌駕している。  どことなく不安になりつつも、俺たちは目的地の最上階へ上がるが、着いて早々度肝を抜かれた。  エレベーターの扉が開くや否や、エントランス越しから、会社の代表と思しき女性がその穏やかならぬ社名を携え、滔々と自己紹介をしてくる。  田沼 茅冴。  そう名乗る彼女は、ノコノコとこの場へやって来た俺を逃さないと言わんばかりに、粘着質な視線を浴びせてくる。  そのスレンダーな体のラインがくっきりと見えるほどに、タイトに着こなした紺色のビジネススーツ。  日本人形を彷彿とさせるかのような、腰の辺りまで伸びた艶のある黒髪。  建物全体が放つオカルト臭も相まって、その胡散臭さは10割増しだ。  エレベーターを隔てて薄っすらと伝ってくる、合成香料とは縁遠いナチュラルな石鹸の香りすらも、不穏に感じてくる。    これだけ条件が揃っていれば、もはやとも思える。  しかし、そう判断するのは時期尚早かもしれない。  所詮は同じ人間。  話せば、分かる。  そうだ。新井が言っていた通りなのだ。  人間関係の諸原則における基礎中の基礎だが、この殺伐とした現代社会においては、ふとした拍子に忘れそうになってしまう。  こうして不気味……、もとい柔和な笑みで歓迎してくれているわけだ。  これは彼女の誠意に他ならない。  そんな彼女の想いに真摯に応えるとするならば、俺が出来る行動はただ一つ、だ。 「……さて、と。目的は達成されたから帰るかな」  俺がエレベーターの『閉』ボタンを押そうとすると、新井は再び俺を羽交い締めにし、全力で止めにかかる。 「だから帰らないでよっ!」 「いや帰るねっ! もはや詐欺どころかホラーじゃねぇか! つか何だよ、あの攻めた社名はっ! 取り繕う気すらねぇだろ!」 「知らないしっ! アタシが付けたんじゃないんだからっ!」 「そもそも、こんな分かりすい事前情報があるなら最初に言えっ!」 「だって言ったら、絶対来てくんないじゃん! お願いだからもう少しだけ居て!」 「んんっ!」    俺と新井のやりとりを掻い潜り、目の前の田沼 茅冴は大きく咳払いをした。  すると新井は俺に近付き、小さく耳打ちをしてくる。 「……あのさ。一応、話だけは聞いてみてくんない? それからだったらアタシも止めないから」  まぁ、確かに……。  新井の言っていることにも、一理あるのかもしれないが。  ここまで来てしまった以上、腹を括るしかない、か?  少なくとも、あちらの意図が判明するまでは……。  俺は恐る恐る、田沼 茅冴に向き直る。  すると彼女は待ち合わせていたかのように、ニコリと目を細めた。 「改めまして。お待ちしておりました。まずはあなたのお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」  彼女は一端の社会人しぐさで、淡々と俺の自己開示を求めてくる。  この辺りやはりというか、はしているようだ。  だからこそ、尚のこと警戒の色を強めてしまうのだが……。 「……荻原 訓です」 「オギワラ サトルさん、ですね。失礼ですが、彼女とはどういったご関係で?」  そう言って、彼女は一瞬新井の方へ視線を向けた後、俺を真っ直ぐに見つめてくる。  顔は笑ってはいるが、その眼力に自分でも怯んでいることが分かる。 「あ、えっと……、同じ大学に通っていて、スペイン語の授業が一緒で……、何ていうか他人以上、知り合い未満くらいの関係です」  田沼 茅冴が発する独特のプレッシャーのようなものに気圧され、俺はよく分からないことを口走ってしまった。  案の定、新井は額に手を当て呆れ顔をしている。 「なるほど……。承知しました。では立ち話も何ですので、どうぞ中へ」  彼女はそう言って、左手を差し出し、オフィスの中へ招いてくる。  俺は新井に目で合図を送る。 「大丈夫、だから。たぶん」 「おい」  あまりの情報量に思考も覚束ない。  俺たちは招かれるまま、オフィスの中へ進んだ。
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