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プロローグ
海の底にはアイエアルという小さな人魚の国があった。女王の治める平和な国はかつて人間と交流していたが、それも遠い昔のこととなった。若い人魚たちはもうその時代を知らず、人間を夫とした女王も退位して久しい。
けれど、彼ら人魚は長命でかつてのことを大切に思い起こすものは多い。特にかつて彼らの友であった人間ノア・ライアンが遺した大壁画の前では、彼を忍ぶものは少なくない。
先の女王の子息であり、医者となった青年もそんな一人だった。時間があるとついついここに来てしまう。壁画に触れて目を閉じる。今もあの日々を昨日のことのように思い出せるのに、ノアはもういない。
「王子先生!」
幼い人魚にぶつかるように抱きつかれて彼はふと笑う。
「元気そうだね。最近来ないから安心してるよ」
彼の言葉に少女ははにかむように笑った。幼い子供は病院には来ないでくれた方が安心できる。少女は昨年入院していたが、今はすっかり元気だ。
「王子先生はまたのら・らいあんのことを思い出していたの?」
少女に問われて彼はふうと息をつく。ノアがいなくなってもう二百年近くの時が流れたというのに、面影を探してしまう。
「そうだよ。ノアはぼくにとって特別なんだ。やさしくて、わがままで、お調子者で、ダメなところも多かったけど、ノアがいなかったらぼくはここに居なかったかもしれない」
彼は大壁画を見上げる。巨大なクジラと銀の髪の人魚が戯れるように泳ぐ絵だ。片隅に小さく残されたサインを彼はそっとなぞる。
出会ったばかりのころ、彼はまだ無名どころか、画家の卵としても不完全だった。
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