画家とモデル

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画家とモデル

「やっぱりダメだ」  ノア・ライアンは絶望したように呟いて、海のように鮮やかな青い絵の具が付いた絵筆を置く。思った通りの絵が描けないのはいつものことなのに都度都度絶望するのはバカらしい。それはわかっている。わかっているが、情けなくてキャンバスを引き裂きたくなる。  頭で思い浮かべているうちは、下描きや色塗りのうちは、上手に描けているような気がする。なのに完成して目の前にあるのは誰もが下手くそと評する絵だ。いつでも甘やかしてくれた祖母でさえ目をそらした絵。  絵を描くことがとにかく好きなのに、思った通りの線が引けない。思ったように色が塗れない。絵画教室の教師にも匙を投げられた。両親にも遠回しに諦めるように言われた。そんな画家の道にノアがしがみつき、絵を引き裂かないでいられるのは変わり者の伯爵が彼をお抱え画家として雇ってくれたからだ。  伯爵の名はアルフォンス・フレデリック・フェデラー。港湾都市ガレアリアの領主であり、王の覚えもめでたい。貴族であるのに商売上手な彼は貿易で巨万の富を築いている。そのため比較的税が軽く、ガレアリアはますます栄えた。当然民からの人気も高く、模範的な領主との評価を受けている。  そんな彼がノアを選んだのはただの気まぐれ、すぐに放り出される。周囲はそう思っていた。手元で画家を育てるにしたってもっといい画家がいただろう。ノアはそんな周囲の声に同意せざるを得なかった。なにしろ彫像のスケッチさえまともにできないのだから。  だが、彼は最初に宣言した通り、ノアを大事にしている。高名な画家を教師として呼んだり、手本となる絵を頻繁に買い与えたりしてくれた。それが数か月で終わらず、二年経った。広すぎるアトリエと豪華な部屋は平民の彼には過分なほどで、待遇はその限りではない。  彼はノアの絵を独創的で面白いといつもほめるが、下手くそであることは否定しない。彼が愛しているのはノアが作り出す色で、何が描かれているかは重要ではないらしい。  それなら画家ではなく壁塗り職人にでもしてくれと駄々をこねたこともあるが、まだ若い君の未来を信じていると笑われた。そう、ノアは若いのだ。  彼はたったの十五でアルフォンスに選ばれ、ここに連れて来られた。元より上達という言葉とは縁薄い彼ではあるが、ここに来てから上達したかといえば、否だ。金離れのいいパトロンが言葉を尽くしてほめてくれようが、素晴らしい画材や道具を与えられようが関係ないのだ。  そんな状態でもほめてばかりの彼に癇癪を起してパレットを投げつけたこともある。彼の上等なウールのジャケットが色とりどりの絵の具でべったりと汚れた。だが、彼は笑って許してくれたどころか、そんなに思い詰めるほど絵を愛してくれていてうれしいとほめてくれた。  援助が打ち切られることもなければ、訪れが減ることもない。それどころか珍しい画材を取り寄せたと言っては山のように与えてくれるし、気晴らしも必要だと頻繁に遊びにも連れだしてくれる。  だから、どうしても居心地の悪さを感じてしまう。少しでも彼の援助に報いられていたら、ここまで思うこともなかっただろう。そう思うと情けなくて泣きたくなる。 「どうせ僕には才能がないんだ」  ため息交じりに呟くと、ステップを踏むような足音が近づいてくるのが聞こえた。廊下は隙間なく絨毯が敷かれているから足音は響かない。だが、本邸とこの別棟を繋ぐ廊下だけは石畳だから音がよく響く。ここに来るものでそんな足音を響かせるのはアルフォンスだけだ。  いい年で独り身、絵の下手くそな画家を後生大事にしている。乙女もうらやむような美しい金髪を毛先だけ赤く染めている。ジャケットがいつも異様に派手。そんな彼が変わっていることを誰も否定しないだろう。有能で善良な人物であることも確かなのだが。 「やあやあ、ノア、またいい絵を描いたじゃないか」  相変らずご機嫌な声を出したアルフォンスのジャケットは鮮やかな黄色で、真夏の太陽だってこれほど眩しくないだろう。コートは着ていないが、毛皮の襟巻を着けたままだ。帰ってすぐにここに来たらしい。 「夏の情景が思い起こされるようだ」  肩に手を置いて絵を覗き込まれたノアはため息を吐く。夏の情景を描いたつもりは欠片もない。彼からはいつも海辺の潮の香りがするが、今日はひときわ強く感じる。 「ため息ばかりついていると才能が逃げる」 「元からないですよ、そんなもの」  吐き捨てるように言うと雑に頭を撫でられた。 「あるさ。君にはあふれ出すほどの才能がある。君は必ず後世に残る絵を描くようになる。この俺が保証する」  相変らずの大口にノアはもう一つため息を吐く。以前似たような話をしたとき、教会で宣誓してもいいと言われたから、本気ではないだろうと言い返したら本当に宣誓された。彼の信頼と保証が絶対のものなのはわかっている。わかっているが、大げさすぎないだろうか。  チャンスは掴むものだとよく言われるが、ノアの場合はアルフォンスという大きすぎるチャンスに鷲掴みにされたという方が正しい。 「そうやって保証されて二年経つって知ってますか?」 「まだ時間が足りないだけさ、かわいいノア。君の才能は大きすぎて、まだこの辺りで止まっているのかもしれないな」  アルフォンスは肘のあたりを示しながら父親のような顔で笑う。またこれだ。この流れになったら絶対に丸め込まれる。これに何度丸め込まれただろう。なんだかんだ辞めずに二年続けて来られたのは彼の存在が大きい。絵を描くのが好きという一点だけでは彼自身の情熱はとうに燃え尽きていただろう。絵が下手くそだという事実は彼自身が一番わかっているのだから。  もう見切りをつけて絵画教室をやめようとしていた日にアルフォンスは現れた。誰もが彼を止めようとしたが、ノアには才能があると豪語し、救い上げてくれた。大恩があり、彼の期待を裏切りたくない気持ちもある。だからなおさら申し訳なくて定期的にやめたくなる。 「ノア、かわいいノア、君がそろそろそんな気分になる時期だと思って新しい出会いを提供しに来たんだ」 「出会い?」  彼はノアの気分が落ち込む時期を把握していて、遊びに連れ出したり、デッサン用の彫像や、お手本の絵を買ってくれたりする。新しい出会いを提供すると言い出したのは初めてのことだ。 「入っておいで、カミーユ」  すでに連れて来ていたようだ。小柄な少年がおずおずと入って来た。きれいな長い銀髪が日の光にキラキラと輝く。少年が顔を上げた。大きな紫色の瞳と目が合った。時が止まったかと思った。けれど、暖炉の薪がパチパチと爆ぜ、時は止まっていないのだと教えてくれる。  少年は絵画から抜け出して来たのだと言われても信じてしまいそうなほど美しい。薄く形のいい唇はバラ色で、丸い頬は桃のようだ。そして、その大きな瞳は露をたたえて日の光に輝くアジサイのようにも、アルフォンスが見せてくれたアメシストのようにも見える。 「ハジメマシテ、がかさん、カミーユ、です」  恥ずかしそうに話しだした少年の声は透き通っていて高い。以前教会で聞いたボーイソプラノのようだ。声変わりもまだらしい。 「は、初めまして、ノア・ライアンです」  なんの取り柄もない、冴えない自分が恥ずかしかった。アルフォンスが頻繁に服を誂えてくれるからみすぼらしくないことだけが救いだ。けれど、そんな服も絵の具が付いている。 「カミーユは君のモデルに最適だと思って連れてきたんだ。仲良くやってくれ」 「はぁ……」  美しいモデルがいれば上手に絵が描けると思われたのだろうか。すでに彫像は何体もアトリエに立っているし、お手本と買い与えられた絵画も壁にずらりと並んでいる。それでも上達しないのだから、モデルが幻想的なほど美しくても変わるとは思えない。 「ライアンさんのえ、見たいです」  大きな目で上目遣いに見上げられて、ノアは思わず絵を隠す。 「見せるほどのものじゃ……」 「見せておあげ、ノア。俺の画家の絵はかなり独創的だが、君も気に入ってくれると確信している」  そんな風に持ち上げないでくれと思っている間に絵を取られた。モデルを頼むならそうかからずに絵が下手なことを知られるとわかっていても複雑でノアは目をそらす。 「わぁ、すごい。ふーけい、ですか?」  感嘆の声に彫像を描いたものだとは言えなかった。彫像は見たまま灰色に塗ったが、背景を青や緑で塗っているから風景に見えたのだろう。 「これは彫像を描いたものだろう? ノア」  彼はノアが描いたものをすべて見ているから風景画と彫像の絵の違いはわかっていたらしい。ノアは目を伏せて頷く。カミーユは困ったように目を泳がせた。 「え、と、どくそーてき、ですね」  絵画の中から抜け出してきたような美少年に気を遣わせてしまったことに申し訳なさが募る。絵がうまくないどころか壊滅的なことはわかっている。 「うんうん、そうだろう?」  アルフォンスは満足げに頷いて、絵を持って行ってしまった。彼が空気を読まないのか、読めないのか、たまにわからない。ノアはふうと息をついてカミーユに向き直る。 「下手だと思ったなら正直に言ってくれていいんですよ。傷つきませんから。気を使われる方が辛い」  カミーユはもじもじしていたが、口を開いた。 「あの、怒らないで、聞いてほしい、です。カミーユは、え、というものを見るのが、初めて。どう見たらいいか、わからない、です。だから、へたとか、どくそーてきもわからない。ごめん、なさい」  普通に生きてきて絵を見たことがないなどということがあるのだろうか。不思議に思ったが、聞き返すのもおかしい気がして、ノアは肩をすくめる。 「気にしてないから大丈夫ですよ。ぼくの絵に何が描いてあるかわかるのも、独創的って言ってくれるのもアルフォンスだけですから。きれいな絵は飾ってあるから見るといいですよ」  ノアが促すとカミーユは物珍しそうに絵を見て回った。絵を初めて見るというのは本当のことらしい。驚きに見開かれた目がキラキラと光る。あんな風に自分の絵も見てもらえたらいいのにと思わずにいられなかった。  大きく取られた窓や、天窓から差し込む光で銀色の長い髪がキラキラと光る。そうして絵を見ているだけでも絵になるのだから、美少年は得だ。そんなことを思いながら、茶色の癖毛を撫でつける。  ぐるりと見て回ったカミーユが戻って来た。 「ライアンさんのえ、の方が、きれい」 「お世辞を言う必要はないんですよ」 「色、が好き」  君もか、と出かけた言葉を飲み込む。色彩だけであれ、好かれるのはうれしいことだと素直に受け取りたい。 「ありがとうございます」  カミーユははにかむように笑った。その笑顔が眩しくてノアはつい目をそらす。 「君は何歳ですか? 僕は十七」 「カミーユは、えと、十四です」  彼は指を使って数えるような仕草をした。自分の年もわからないのだろうか。もう少し幼く見えたが、それほど年が違わないらしい。 「三つ違いなんですね。アルフォンスは変な人だけど、いい人だから安心していいですよ。君もここに住むんですか?」  部屋ならまだいくつも空いている。アルフォンスは迎えに来るともなんとも言わなかった。 「たぶん……フェデラーはくしゃくは何日いてもいいって」 「え? ちょっと待って、君ってモデルの仕事をしていて、アルフォンスに雇われてここに来たんじゃないの?」  まだ子供だから親にも話して連れて来られたものだとばかり思っていたが、違いそうだ。 「カミーユは、じゆう、が欲しくて、逃げました」  予想外の言葉にノアは思わず天を仰ぐ。それは連れてくるのではなく、しかるべき施設に連れて行くべきなのではないのだろうか。逃げてきたなら何らかの事件に巻き込まれている可能性さえある。  アルフォンスは何か事情を知っていて考えあってのことなのだろうか。それならそうと説明していってほしかった。 「あの、めーわく、ですか?」  カミーユが不安げに声を上げた。 「あ、いや、大丈夫。ちょっと驚いただけ」  ノアは乾いた声で笑う。この別棟に来る召使は限られているし、一人くらい匿ってもわからないだろう。それに屋敷の中の情報は外に漏れにくい。アルフォンスがよい主人であるからなおさらだ。彼もそんな風に考えたのかもしれない。 「えっと、とりあえず好きな部屋を選んでもらっていい? アルフォンスが家具を手配してくれているだろうから」 「かぐってなんですか?」 「クローゼットとかベッドのことだよ」  そう答えるとカミーユはわからないというように小首を傾げた。絵どころか、家具も知らずに生きて来られるものだろうか。ずっと気になっていたが、言葉もずいぶんたどたどしい。 「えーっと、君の家には寝る場所とか、服をしまう場所はなかった?」 「いえ?」 「あー、住むところ。屋根があって壁がある。安心していられる場所」 「いえ、ないです」  家さえないとはどういう意味だろう。逃げてきたとカミーユは言った。ずっとどこかに閉じ込められていて、そこが安心できる場所ではなかったから逃げてきたのだろうか。 「どうやって寝ていたの?」 「そのまま、寝ました」  カミーユは胸の前で腕を交差させる仕草をした。立ったまま寝ていたとでもいうのだろうか。全然話が進まず、ラチが明かない。ノアは仕方なく自分の部屋を見せることにした。散らかっているが、見せられないほどではない。 「大きいのがベッド、寝る場所。これがクローゼット、服が入ってる。机、書き物をする。椅子、座るものね。こういうのをまとめて家具って言うんだ。わかった?」 「はい」 「でね、部屋はここのほかに四つ空いているから、好きな部屋を選ぶといいよ。日当たりとか広さとか好みがあるだろうし」 「ひあたり?」  またカミーユが小首を傾げた。 「えーと、窓、あそこに外が見える場所があるでしょ? あそこからお日様の光が入るから、その加減のこと。わかる?」 「なんとなく」  カミーユは困ったように笑った。あまりにも物を知らなすぎる。これほど物知らずで生きて来られるものだろうか。これでは普通に生活するのも難しそうだ。 「部屋、一緒に見ようか?」 「はい」  カミーユはドアの開け方も知らなかった。知らないことが多すぎて、知っていることの方が少ないのではないかと思えてくる。  四つの部屋を見て、カミーユは一番窓が大きい部屋を選んだ。大きな窓が気に入ったのだという。 「大きい窓が好きって気持ちはわかるな」  ノアがそう言うとカミーユはほっとしたように笑った。 「これで僕のアトリエに家具が溢れる心配はなくなったよ」 「かぐが、あふれる?」 「うん。アルフォンスはお金持ちで行動も早いから急がないと大変なことになっちゃうんだ。家具を運んで来てくれる人たちを困らせることにもなっちゃう」  初めてここに来た日のことをノアは懐かしく思い出す。ここが君の家だ、と与えられたのは真新しい別棟。彫像が一体あるだけで殺風景なものだった。だが、夕食の前には豪華な部屋とアトリエが整い、大事に運んできたイーゼルがあまりにもちっぽけで唯一の拠り所のように思ったのを覚えている。 「ここ、もライアンさんの、部屋?」 「ある意味ではそうかな。ここはアトリエ。絵を描く部屋なんだ。僕一人で使うには広すぎるし、画材も使いきれないくらいある。君も絵を描きたかったら描いていいんだよ」 「楽しそう、です」  カミーユがほわと笑った。やっと自然な表情が垣間見えた気がして、ノアはうれしくなる。 「カミーユ、僕のことはノアって呼んで。仲良くなろうよ」 「はい、ノア。カミーユは、なかよしの人、いません。なかよししてください」 「うん。仲良しの人は友達って言うんだ」 「ともだち」 「そう、友達」  カミーユはうれしそうに笑った。何も知らないカミーユに友達もいなかったのは自然に感じた。違和感ばかりが付きまとうが、ノアは気にしないことにした。カミーユは知らないことが多いだけで素直だ。きっと仲良くなれるだろう。  予想通り、日が暮れるよりも早くカミーユの部屋が整えられた。そしてなぜか空き部屋に大きなバスタブが運び込まれた。別棟にはシャワーも風呂もない。飲み水も本邸から運んでいるのに、そんな大きなバスタブが運び込まれたのは不思議で仕方がなかった。
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