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鐘の音が六時を告げるのを聞き、ノアはカミーユと連れ立って本邸の広間に向かっていた。食事は本邸の広間で食べることになっている。アルフォンスが不在でも広間に行かなければならない。それがアルフォンスによるノアの健康管理のための決まりだからだ。夢中になると食事も忘れてしまったり、眠らなかったりしたから作られた決まりだ。
食事に行かなければ誰かが必ず様子を見に来るし、遅くまで起きているとランプの油は抜かれ、蝋燭は没収される。必ず立派に育て上げるとノアの両親に約束した手前もあるのだろう。煩わしくも思うが、ありがたい気遣いだとノアは思っている。放っておいたら飢え死にしても絵を描いていそうだと祖母にもよく心配された。
これまでアルフォンスと二人か、一人きりだった食事がカミーユも一緒なのはうれしい。いくら気さくに話してくれると言っても彼は高貴な伯爵で、父ともそれほど変わらないほど年上だ。気を使わないとは言えない。
「ひろまは、広い、ですか?」
「広ーいよ。アトリエも広いけど、あれが五つ分くらい。廊下だって僕たちの部屋くらい広いでしょ?」
本邸の廊下は実は長い部屋なのだといわれても信じてしまいそうなほど幅が広い。
「はくしゃくだから、広い?」
「そうじゃないかな。アルフォンスと他の貴族の屋敷に行ったこともあるけど、同じくらい広かった」
「そうなんですね。びっくり。もしかして、ひろまは遠い、です?」
別棟から廊下を渡り、本邸の廊下をかなり歩いてきたが、まだ広間の扉さえ見えない。
「気付いた? 広間は本邸の真ん中にあって、別棟は端っこ。今やっと半分を過ぎたかなってくらい。アルフォンスも毎日は来ないよ。あれでいて忙しい人だし、別棟とほぼ反対側に住んでるから」
「広いのは、ふべんそう、です」
「そうかも」
ノアは思わずくすくす笑う。これまで広さに圧倒されるばかりでそんなことを考えたことはなかったが、確かに不便だ。広いのも限度がある。
「ほら、やっと見えてきたよ。あれが広間の扉」
両開きの大きな扉には象嵌で季節の花々の装飾が施されている。カミーユはほうと息をついた。
「すごい、です」
「中はもっとすごいよ。初めて来たとき目が眩んだもの」
ノアの姿に気付いた二人の召使がいつも通り扉を開けてくれた。この待遇にはいつまで経っても慣れない。ノアはお抱え画家で半分客のようなものだから、召使とは一線を画する扱いを受けている。本来はごく普通の平民だからノアは落ち着かなかった。
中の様子を目にしたカミーユが息を飲んだ。シャンデリアに飾られた無数のカットガラスがろうそくの光を乱反射して眩いほどに明るく広間を照らし出す。白い壁に掛けられた濃紺のカーテンは重厚でありながら家具と調和し、広間をきりりと引き立てる。
規則正しく配置された円形の花台には冬だというのに、花々が競うように咲き誇っている。細かな彫刻と金の装飾が施されたテーブルと椅子も主張しすぎることはない。
主張しすぎるアルフォンス自身の見た目とは正反対だ。広間や彼の部屋を見るにつけ、本当はセンスがいいのに服だけセンスがおかしいのはわざとなのではないかと思えてくる。
「ね、すごいでしょ?」
「はい」
カミーユはシャンデリアから目を離せないままに頷く。大きな紫の目にシャンデリアが映り込んでキラキラ輝いている。カミーユはそのまま広間に視線を滑らせて小首を傾げた。
「テーブル、遠い、ですね」
その言葉にノアはくすりと笑う。
「テーブルが遠いんじゃなくて小さいんだよ。広間が広すぎるから三人で使うには大きくても、小さく見えちゃう。そのせいで遠く見えるんだ」
カミーユは納得したように頷いた。
「本当は広間に見合う大きさのテーブルもあるけど、アルフォンスが嫌いなんだって」
「遠くなる、から?」
「そ。こぉんな広い屋敷に一人で住んでるのに不思議だよね。寂しがり屋なのかも」
カミーユはくすくすと笑った。
「誰が、寂しがり屋だって?」
後ろから突然声が聞こえてノアは肩をすくめる。その落ち着いた低い声はアルフォンスのものだ。ちょうど来たところらしい。本邸だと絨毯が音を消してしまうからいつの間にか彼が側にいる。
「あなたのことですよ、アルフォンス」
「ほーぅ、初めての夜、寂しくて眠れないと俺の部屋に来たのは誰だったか」
ノアは思わず顔を赤くする。引っ越してきて初めての夜、眠れないでいるうちに寂しくなって彼の部屋に行った。
「む、昔の話じゃないですか!」
「昔も今もお前はかわいいよ、ノア」
頭をガサツに撫でられて何も言い返せなかった。
「さて、カミーユ、部屋は気に入ったか?」
「はい。すてきなお部屋、うれしい、です」
「それはよかった。困ったことは何でも言ってくれ。俺に言いにくければノアに言うといい」
カミーユはノアをちらと見て、ほっとしたように笑った。うまくやっていけそうだ。
テーブルにつくとカミーユはひどく不思議そうにカトラリーを見た。数が多いから驚いているのかと思ったが、違うようだ。ピカピカに磨き上げられた銀のスプーンに自分の顔が映っているのをまじまじと見ている。
「これはなに、ですか?」
しばらくしてカミーユが口を開いた。数や装飾が違っていても見たことがあるだろうと思ったが、ないようだ。
「どれも食事のための道具だ。俺やノアの真似をすればいい。難しそうだったらその都度教える」
「はい」
カミーユは本当にカトラリーの使い方を知らなかった。それどころか咀嚼することもわかっていない様子で、ノアは驚きを隠しきれなかった。物知らずという次元ではない。
けれど、アルフォンスは事情を知っているのか、気にしていないのか、動揺する様子も見せず、丁寧に教えている。
「これは、食べ物?」
半泣きになりながらも一生懸命食事を続けていたカミーユが肉を指してそう言った。
「ああ、食べ物だが無理はしなくていい。口に合わないかもしれない」
カミーユはアルフォンスに教えられて、肉を小さく切って口にしたが、両手で口を押えた。真っ青になっている。口に合わなかったどころではなさそうだ。
「無理に食べる必要はない。そこのナフキンに出していい」
カミーユはすぐに言われた通りにした。これまでの料理も苦手そうにするものがあったが、どうにか食べていた。肉はそれどころではないらしい。上等な肉は油が程よく乗っていてやわらかく、絶妙な火の通り具合でおいしいのだが。
「せっかくのおりょーり、ごめん、なさい」
「気にするな。誰しも食べられないものはある。料理長に調整させるから食べられないものはすぐに言ってくれ」
「はい」
その後もカミーユはいくつかの料理を残した。
ノアには彼の対応が不自然に思えた。彼はノアに好き嫌いを直すように再三言っている。それどころか嫌いなものは手を変え品を変え食べさせようとしてきた。執事や召使に後ろから見張られたこともある。
好き嫌いではなく、食べられないものと彼は言った。そこに訳があるのだろうか。
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