たとえ世界が変わっても

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 買い置きしていた使い捨てマスクがとうとう底をついてしまった。午前八時、私はリビングのソファーに座ったまま、テレビ画面に表示された感染者数を眺めている。 「そういえばね」  ダイニングテーブルを拭きながら、母が言った。 「隣町でもウイルス感染したお家があったじゃない?」  そんな話もあったかもしれない。不便を強いられるほど田舎ではないけれど都会とも言えない住宅地、関心の寄せられた噂話は瞬く間に広がってしまう。 「そのお家ね、ひどい嫌がらせをされているらしいわよ」 「嫌がらせ?」 「窓に生卵を投げつけられたり、玄関にゴミを置かれたりしているんですって」  嫌だったのは、嫌がらせの内容そのものよりも、同情を浮かべながらもどこか嬉々とした母親の声色だった。  不要不急の外出自粛を呼びかけられている状況で、県外ナンバーの車が地元の人々に攻撃されるという事件があったという。感染対策の徹底を、新しい生活様式の取入れを、三密の回避を。新鮮な言葉達が私達の生活を脅かし、正義感を歪めていく。  私もまた、焦燥感に駆られていた。会社からは音沙汰がなく、売上のない状況で今後会社が持続できるかすら分からない。  コタツテーブルに置いてあったスマホがメッセージを受信した。聡からだった。  【やべえ、トイレットペーパーが切れた】  笑いを示すアルファベットと共に届いたメッセージは、聡からのSOSに見えた。私は立ちあがり、廊下に取り付けられた物置を漁る。 「美樹、どうしたの?」 「聡のところに行ってくる」  買い溜めしていたトイレットペーパーを袋から二つ取り出しながら私が言うと、洗濯カゴを持った母の表情が変わった。 「なに馬鹿な事を言っているの? 不要不急の外出は控えなさいって言われているでしょう」 「急を要するの。聡に会わなきゃ」 「馬鹿な事を言わないで。あなたが感染者になったら、もうこの家に住めなくなってしまうのよ」  物置のドアが、パタリと閉まった。私はゆっくりと母を見下ろす。 「心配なのは、それなの?」  私の言葉に、母の表情が強張った。  新型のウイルス感染によって有名人が亡くなり、ウイルスの脅威を世間に知らしめていた。ウイルスは怖い。だけど、人間はもっと怖い。 「心配しなくていいよ。もう戻ってこないから」  そう言って、私はトイレットペーパーを両手で抱えながら二階に駆け上がった。待ちなさい美樹、と背後で響く母の声が小さくなる。
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