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やって来た新幹線の駅構内は、まだ昼間だというのに驚くほど人が少なかった。見上げた電子掲示板は臨時ダイヤで運行する旨が流れている。私は券売機で新幹線の切符を購入した。何度もやって来た行為なのに、タッチパネルに触れる指先に緊張が走る。
ガーゼで作ったマスクに熱がこもり、呼吸が苦しい。
新幹線の車内の乗客も少なかった。アナウンスはしきりに感染対策について告げている。
世界は変わってしまった。
これまで当たり前のようにしてきた事ができなくなった。気軽にスーパーで買い物をする事、友人達と飲みに行く事、恋人に会いに行く事。
斜め後ろの席に座っているサラリーマンがこちらを見ているような気がして、私は髪の毛で耳元を隠してうつむいた。仕事で仕方なく移動をしている彼らにとって、私服姿で新幹線に乗り込む私が不要不急の外出をしている人間に見えているのかもしれない。
でも、違うのだ。膝の上に乗せたトートバッグを胸元に抱く。誰がなんと言おうと、歪んだ正義を向けられようと、私はこれを届けなければならない。
新幹線と在来線を乗り継いで、聡の家の最寄り駅に着いたのは午後二時だった。
「美樹」
社内でやり取りしたメッセージ通り、マスクをした聡が私を迎えに来てくれた。私が住んでいる場所よりも田舎だとはいえ、駅構内はがらんとしていて、聡の声がよく響く。
「本当に来たんだ……」
スーパーの床に現れ始めた、人との間隔をあけるための線が、聡と私の間にも引かれているみたいだった。
「迷惑だった……?」
マスクのせいで聡の表情が見えず、私はトイレットペーパーを突っ込んだトートバッグの紐を握りしめながらおずおずと聡を見上げる。
窓口にいる駅員からの視線を感じて振り返ったが、窓口の向こうでは駅員が忙しそうに働いていた。悪い事をしているわけじゃないのに、常に罪悪感がつきまとう。今の私は、攻撃されてしまった県外ナンバーの車達と同じだ。
「美樹」
一定の距離を保ったまま、聡が言う。
「俺は、医療関係者だよ。昨日も感染者の対応をしたけど、会って大丈夫なのか?」
緊張を伴った聡の声には、この情勢への疲弊が混ざり込んでいた。無理もなかった。テレビでも医療従事者の負担が叫ばれている。私にとっての対岸の火事が、聡にとっては日常だ。
だから、私は聡に会いに来た。
「それは、私にも同じことが言えるよ」
トートバッグを抱え直し、私はまっすぐに聡を見つめた。
「できるだけの感染対策をしてきたけれど、長距離移動をした私を、聡は受け入れてくれるの?」
私は無意識にガーゼ生地のマスクに触れていた。使い捨てマスクがなくなる少し前に、母が作ってくれたものだった。冷たい春風が首元に触れる。ずいぶん遠いところにまで来てしまった。感染していない事を証明しなければ逢瀬さえ重ねられない。
聡の眉根が寄せられる。マスクをしているからこそ、それがよく見えた。一歩分の距離が近づき、手を伸ばされ、そして。
「当たり前だろ」
遠かった聡の声が、マスク越しで耳元で響く。聡が、私を抱きしめていた。
絡み合っていた歯車が、かちりとはまるような安心感が胸に広がる。自分で思っていた以上に、私は聡に会いたかった。誰もいない駅構内で、私達はマスクをしたまま寄り添う。
これからどのような未来が訪れるのか想像もつかない。世界は元に戻らないのかもしれない。人との繋がりは途絶え、仕事を失い、生きる希望が消えてしまうかもしれない。それでも、世界が変わったとしても、私は聡と一緒にいたいと思った。
「美樹」
駅から聡の住むアパートまで歩く途中で、手を繋ぎながら聡が言った。
「一緒に暮らそう」
迷いのない、初めから決めていたような言葉だった。「うん」と私がうなずくと、聡がふっと笑った。マスク越しでも分かるその雰囲気が好きだと、新たな発見が心に落ちる。
「落ち着いたらご両親に挨拶に行かないとな」
スマホには母からのいくつもの着信やメッセージが届いていた。最終的には「聡君に迷惑かけないようにしなさいよ」という母の言葉は、私への信頼と受け取っていいのだろうか。
落ち着いたら、がいつになるのか分からない。だけど、私達は前に進むしかない。繋がれた手の力が強くなる。
「それじゃ、これからもよろしくって事で!」
おちゃらけた聡が押し隠したものが、照れ臭さだけではなかった。不安や焦りは消えない。だから私も笑い返す。マスク越しでも分かるように、思い切り目を細めて。
聡の部屋に着いたら、まずは母に連絡を入れようと思った。そして、仕事の事も含めて未来について考えてみよう。明日さえ不透明だけど、聡が傍にいれば怖くない。
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