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『手術終了』
静寂に満ちた密室に、抑揚の無い声が木霊する。
男とも女とも判別のつかぬそれは、有無を言わさぬ強制力を持ってその場を制圧した。
「生命機能、安定しています」
生命維持モニタを凝視していた麻酔科医が報告する。
それまで張り詰めていた空気が一気に緩む。
息を吐きだすスタッフの視線は、患者では無く、執刀医に向けられていた。
賛辞と驚嘆に満ちた眼差しの奥には、なぜか恐怖心に似たものが混じっていた。
『オーケー、戻りなさい【ROAI】』
脳内に女性の声が流れる。
それを合図に、執刀医は静かに腕を下ろした。
『ワカリマシタ。ドクター伊佐美』
機械的な口調で答えると、執刀医はクルリと向きを変えた。
能面のような表情で、そのまま戸口に向かう。
瞬きを一切しない目は、誰も見てはいなかった。
その背中が視界から消えた後、残されたスタッフの間から深いため息が漏れた。
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──ROAI──
正式名称は、〈リモート・オペレーション・アーティフィシャル・インテリジェンス〉
遠隔操作手術に特化した人型人工知能を指す。
GPSを介した医師からの指示により、ロボットが治療対応する最先端医療である。
患者の病状と術式をデータ送信するだけで、執刀と状況判断は全てAIが行う。
これにより、離れた場所からでも手術が可能となった。
昨今の救急救命件数の増加と、深刻な医師不足に対処するため考案されたものだ。
開発者は伊佐美理央──
若干二十四歳で、電子工学博士と医学博士の称号を持つ天才だ。
【ROAI】は現在、軽難度の被験者への手術対応という臨床試験段階だった。
全てパスすれば稟議承認され、量産化が始まる予定である。
「……はい。分かりました……」
携帯を置く理央の顔が曇る。
『ナニカアリマシタカ?ドクター』
「飛田院長からよ。ROAI計画が……中止になった」
目前に立つ【ROAI】の質問に、理央は呻くように答えた。
「コストメリットが低すぎるらしい。量産化に要する費用と患者数を天秤にかけたら、採算が取れない事が分かった。それで、計画は白紙撤回すると……」
そう言いながら、理央は窓の外を眺めた。
「元々、院長はこの計画には反対だった。患者を救う前に病院が潰れたら、本末転倒だとか言って……結局、病人の救済より金儲けを優先したのよ。医療責任者が聞いて呆れるわ……全く……」
悔しげに唇を噛む理央の顔を、【ROAI】はガラスの瞳で見つめた。
計画ガ……中止……
ドクターノ悲願ガ……消失……
集積回路の一部が、キリキリと痛んだ。
「せっかく、臨床試験まで漕ぎ着けたって言うのに……中止になれば、開発設備が維持できなくなる。そうなれば、AIも放棄せざるを得ない……」
困惑した口調で言い放つと、理央は視線を窓外から室内に戻した。
そのまま、壁に掛かったプレートをぼんやりと眺める。
そこには、ある柄がプリントされていた。
一本の杖に巻き付いた蛇──
WHO〈世界保健機構〉のシンボルマーク──【アスクレピオスの杖】だ。
ギリシャ神話の医の神、アスクレピオスがモチーフとなっていた。
計画ガ……中止……
その様子を見つめる【ROAI】の胸中に、一種の感情めいたものが芽生える。
【ROAI】モ……中止……
ワタシモ……消失……スル……
金属製の胸が、締め付けられるような感覚に襲われた。
消失……否定……回避必要……
駆動電力が過剰供給を始める。
さしずめ人間なら、頭に血が上った状態と言える。
プリント配線板の焼け付く臭いが鼻をついた。
回避……回避……回避……回避……回避……
思考回路に【回避】の二文字が羅列していく。
それは明らかに、人工知能が示した拒絶反応であった。
胸の痛みが極限に達する。
頭を抱える理央を見つめ、【ROAI】は静かに頷いた。
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コンコン
ノックの乾いた音が室内に響く。
男は、事務デスクから顔を上げた。
「誰だ?」
憮然とした口調で問う。
「伊佐美です。飛田院長」
聴き覚えのある声が、ドア越しに答える。
「何だ?こんな時間に」
「すいません。大事なお話がありまして……」
飛田と呼ばれた男は、軽く舌打ちした。
「……入れ」
吐き捨てるように言うと、飛田はまた机上の書類に目を落とした。
音も無くドアが開き、デスク前に人の立つ気配がした。
「例の役にも立たんAIの件なら、何も話す事は無いぞ。あれはもう、終わり……」
言いながら上げた飛田の顔が、驚きに変わる。
見開いた目が、眼前の人物の左手に釘付けとなる。
小さな手術用メスが、鈍い光を放っていた。
「お、お前!……そ、それは!?」
男の言葉は最後まで続かなかった。
微かな斬撃音がしたかと思うと、次の瞬間、男の首筋から血飛沫が舞った。
「う、ぐっ!!」
声帯を狙った一撃は、見事に飛田から声を奪った。
ヒューヒューという空気音を鳴らし、苦悶の表情を浮かべる。
喉に当てた手の隙間から、止めどなく血が溢れ出る。
そのままデスクから転げ落ちると、芋虫のように床を這い回った。
やがてビクンと一度痙攣した後、飛田の体は動かなくなった。
彼を襲った人物は、その場にしゃがむと、メスを持たない方の手で男の脈をとった。
完全に絶命した事を確認し、ゆっくりと立ち上がる。
『コレデ……回避……完了……』
そう言い残すと、その人物は単調な足取りで戸口に向かった。
************
理央は途方に暮れていた。
目の前に立つ【ROAI】の片手が、血に塗れていたからだ。
院長に会いに執務室まで来た時、戸口の前に佇む彼女と遭遇したのだった。
「た、大変だっ!ひ、飛田院長が……!」
叫びながら、若い医師が飛び出して来た。
顔面が蒼白である。
驚いた理央は、慌てて執務室に駆け込む。
床は血の海だった。
そこに男が倒れている。
断末魔の表情を浮かべた飛田院長だった。
「い……院長っ!」
思わず悲鳴を上げる理央。
院長の傍らにいた年配の医師が、驚いたように顔を上げる。
それが理央だと気付くと、一瞬顔が強張ったが、またすぐに院長に視線を戻した。
首筋に手を当て、瞳孔を確認した後、残念そうに首を振った。
理央は、何が起こったかを瞬時に理解した。
手を血塗れにした【ROAI】の姿を思い起こす。
彼女が……こんな事を……!?
「す、すぐに【ROAI】の集積回路を再点検しなければ……」
「いえ……その必要はありません」
戸口に戻ろうとする理央を、年配の医師が制止する。
「それよりも、アナタの手にあるメスを渡してもらえませんか?……伊佐美先生」
「え?……一体、何を……」
緊張の面持ちで手を差し出す年配医師に、理央は眉をひそめた。
気付くと、先ほどの若い医師もこちらの手元を凝視している。
理央は釣られるように、手を持ち上げた。
声にならない絶叫が、喉から迸る。
血に染まった袖口の先に、やはり血塗れの手術用メスが握られていた。
「……こ、これは!?」
絶句する理央。
な、何だ……これは!?
なぜ、私が……こんなものを……!?
「飛田院長を殺害したのはアナタですね?伊佐美先生」
年配の医師が、興奮を抑えた声で言い放つ。
その言葉が、まるで刃物のように胸に突き刺さった。
「ち、違います!これは【ROAI】が……彼女がやったのです!お、恐らく、何らかの誤作動が生じたものと……」
医師の方に振り向き、慌てて弁明する理央。
紅潮した顔面が、極度の興奮状態を表している。
「彼女の手をよく見てください!血痕が付いています。それが何よりの証拠……」
「【ROAI】はいませんよ」
理央の言葉を遮るように年配医師が続ける。
「なぜなら、彼女はアナタの妄想の産物だからです。アナタは、【ROAI】が実在していると思い込んでいるだけなのです」
「そんな馬鹿な!現に彼女は、ここに……」
そう言って、理央は室外に飛び出した。
だが、そこに【ROAI】の姿は無かった。
「何で?……確かに今……ここに!」
呆然とした表情で、周囲を見回す理央。
広い廊下のどこにも人影は無い。
「言ったでしょう。【ROAI】は実在していないと……」
年配医師は、再び落ち着いた口調で言った。
「で、では、先日の臨床試験はどうなのですか!?あの時、【ROAI】は手術を行なった。あなた方も、そばで見ていたはずです!」
なおも必死に食い下がる理央。
それには答えず、年配医師はデスクに置かれたパソコンに手を伸ばした。
キーを叩くと、モニターに何かが映し出される。
医師は画面を理央の方に向けた。
「これは先日の臨床試験の記録映像です」
そこには、【ROAI】が執刀した手術の様子が映っていた。
執刀医、麻酔科医、看護師、臨床工学医──
全ての医療スタッフの姿が映っている。
だが……理央の目は、全く違うものに釘付けとなった。
本来なら、患者が横たわっているはずの手術台。
その上には……誰もいなかった。
無人の台上に向かって、全員が治療のマネごとをしているのである。
「【ROAI】は、手術などしてはいません。執刀していたのはアナタ自身だったのです」
その言葉と共に、手術を終えた執刀医の顔がクローズアップされる。
瞬きもせず、能面のような表情で戸口に向かう姿──
それは紛れもなく、伊佐美理央のものだった。
「全ては、アナタの妄想だったのですよ……伊佐美先生」
映像を見終わった理央は、言葉を失った。
そんな……まさか……そんな事って……
なぜ、という疑問ばかりが頭の中を駆け巡る。
「アナタの発案した【ROAI】計画は、失敗に終わりました」
理央の思いを読み取ったかのように、年配医師が語り始める。
「制御システムが、うまく働かなかったのです。自己判断機能が制御できず、AIが命令を逸脱するようになった。勝手に考え、勝手に行動するようになったのです。原因は全く掴めず、このままでは患者の安全が保証できない状況に陥った。開発は頓挫し、結局【ROAI】は完成しなかった……」
医師の声が、狭い室内に響き渡る。
理央は微動だにせず、虚ろな目で聴き入った。
「アナタの失望は、相当なものでした……無理もありません。生涯をかけたアナタの努力が、徒労に終わったのですから……アナタは幾日も自室に籠もり、喚き散らし、魂が抜けたようになった。そして、その頃からです。アナタの言動に変調が現れたのは……」
年配医師の説明が続く。
緊張で、汗が滝のように滴り始めた。
「最初は、自分との会話でした。その場にいるはずの無い相手──伊佐美理央──に対し、話しかけるようになった。まるで、別人に接しているかのように……そしてアナタ自身は、自らを【ROAI】だと思い込むようになった。自分は伊佐美博士に作られたAIであると……これは、典型的な解離性障害の症状です。極度の心的ショックが、アナタの中に二つの人格を作ってしまった」
この時初めて、理央はハッとしたような顔をした。
【ROAI】は私の……別人格!?
それじゃ、あの胸の痛みは……
ロボットが感じるはずの無い痛みは、私のものだったというの?
「我々は悩みました。アナタの知識と技術は、現代医学の至宝とも呼べるものです。このまま失ってしまうのは、あまりにも惜しい。できるなら正常に戻したい……そう考えた我々は、しばらく様子を見る事にしました。できるだけ刺激を与えず、アナタの意に沿った行動をとるよう皆で示し合わせて……架空の手術に付き合ったのも、このためです」
患者のいない手術台の理由が明かされる。
いると思い込んで真剣に対応していたのは、自分だけだったのだ。
言いようの無い虚無感が、理央の胸中に広がる。
「……だが、我々の考えは甘かった。つい先ごろ、飛田院長は【ROAI】計画の中止を決断された。恐らく、アナタの耳にも入ったのでしょう。それがアナタ……いや、【ROAI】の怒りを買ってしまった。我々も、まさかこんな事になるとは予想していなかった……院長の死は、我々の責任です……」
そう言って、年配医師は声を詰まらせた。
沈痛な面持ちで、院長の亡き骸を見つめる。
だがすぐさま顔を上げると、決意のこもった眼差しを理央に向けた。
「こうなっては仕方ない……申し訳ありませんが、アナタを拘束させて頂きます」
年配医師は静かに立ち上がると、一歩前に踏み出した。
「……駄目よっ!!」
それを見た途端、理央はメスを振りかざした。
鬼のような形相で、医師を睨みつける。
「落ち着いてください!伊佐美先生」
「来ないで!」
医師の制止を跳ね退け、一気に窓際まで後退する。
そして今度は、自分の喉元にメスを押し当てた。
「馬鹿なマネはやめなさい!アナタの死は、医学界にとって大きな損失だ。医療技術の進歩は頓挫し、もう二度と【ROAI】が生まれる事は無くなる。患者は……人類は、救済手段を失ってしまうんです!」
年配医師は、懸命に説得しようと試みた。
その言葉に、一瞬理央の動きが止まる。
生気の無い目で周囲を見回すと、男とも女とも判別のつかぬ声で呟いた。
『……緊急回避……消去対象……伊佐美理央……』
そして再びメスを握り直すと、一気に喉に突き立てた。
ゴボっという音を発し、その場に崩れ落ちる。
「伊佐美先生っ!」
医師の絶叫が、室内に響き渡る。
喉から噴き出す血が、見る見る床に広がった。
薄れゆく意識の中、理央は壁のプレートに目を向けた。
アスクレピオス──
その技量の高さゆえ、他神の嫉妬を買い、殺されてしまった医の最高神──
死者をも蘇らせる彼の医術は、全能の神ゼウスですら畏怖したと言う。
自分は……近付けたであろうか?
その神の領域に……
答えは……そこ……に……
「……駄目だ。心停止している……」
容態を確認した年配の医師がポツリと呟く。
生き絶えた理央の表情は、どこか満足げだった。
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それと入れ替わるように、プレートの裏側で異変が生じた。
壁に埋め込まれた小さな空間に駆動音が響く。
続いて光が二つ点滅し、何かが蠢き始めた。
『心音停止……緊急シグナルキャッチ……再起動開始』
微かな明かりに映し出されたのは、配線に繋がれた女性の頭部であった。
能面のような表情に、二つの鋭い眼光──
『次ナル宿主ヲ検索……【ROAI】、始動』
抑揚の無い声が、空気を揺るがす。
ガラスの瞳が、獲物を狙う肉食獣のそれに変わる。
その下で
口角が不気味な形に吊り上がった。
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