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【おまけ】これからのはなし
※本編後(全二頁)
裏の田村家の台所で夫人の話を聞いていたら、塀の向こうから「ひさ、ひさ。いないのか」と螢雪が呼ぶ声がした。ひさは夫人と顔を見合わせ、彼女が「梔子さん、いってあげて」と微笑んでくれたのでもどることにする。
午になってやっと起きたのだろう。まだ起きぬけの姿の螢雪が縁側に立って、もう一度ひさを呼ぼうとしたところで庭を渡ってくるのに気づいてやめた。
お呼びですかとひさは彼を見上げる。螢雪は意外そうに、「なんだ、猫を呼んだらおまえがきたな」とつぶやいた。
呼んだのはひさではなく子猫の氷雨だと云いたいらしい。『ちゃんとひさって云ってました』と唇を動かすと、「まあどっちでもいい」とのたまう。
「おまえでも暇つぶしにはなるだろう。座れ」
もう、と思いながら縁側に腰を下ろす。
梅雨が明けて陽光には夏の力強さが感じられるようになってきた。縁側が光を吸ってあたたかい。
氷雨はどこまで散歩にいったのだろう、と思っていると隣に座った螢雪がごろりと横になって当然のようにひさの膝に頭を置いてきた。予想していなかった行動にひさは固まる。
『せんせい、』
「……あの猫、最近雨が降ってなくてもうちにくるようになってないか」
梅雨時、氷雨はよく螢雪宅で雨宿りをしていた。それが晴れてても家の中まで入ってくるようになり、時にはひさの布団の上で寝て夜を明かしたり、とこのところ距離が縮まってきている。
云われてみれば、とひさは応えた。
『それがどうかしたのですか』
「……二時間だ」
『はい?』
「きのうは二時間もおまえの膝の上にいた。雨も降ってないくせに。
おまえもおまえで最近よく裏の狸夫人の家に行っているだろう。あまり頻繁に行くのはよせ。化かされるぞ」
「…………」
そう云いきるなり彼は庭のほうへ体を向けてしまう。
ひさはしげしげと螢雪の横顔を見た。……急に呼びつけてなにかと思ったら。
せんせい、とひさは彼の腕に指で書く。『やきもち』
「……うるさいな」
ひさは静かに笑った。膝の上にいるこのひとがなんだかおおきい猫に見えてきた。
ほんとうはまだ秘密だったけど、と傷に触れないよう気をつけて指を動かす。
『田村さんのおかあさんは洋食の作り方をご存じなのです。なので色々と教わっています』
「……そんなもの。飯なんて食えればいいだろう」
『洋食は和食よりも体力がつくそうですよ』
先生は徹夜ばかりですから、と云うと彼の表情がすこしやわらいだ。
まぶたを閉じて、声だけは乱暴に「……、好きにしろ」と云ってくる。
不思議だ。むかしは体が弱かったひさのために母がどれだけ食べものに心を砕いてくれていたのか、当時は考えもしなかったのに。
こんなふうに大切なひとができたとたん、よくわかる。
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