【完結】桜葉先生に嫁ぐということ

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「これで十人目だっていう話だよ」  表のほうから聞こえてきた声に、ひさはつと耳をそばだてた。  時は葉月。梅雨入り前のうららかな陽射しが惜しみなく降りそそぐが、井戸の水は氷のようにつめたく、雑巾をしぼるひさの手を真っ赤にさせる。早朝、朝餉の支度をしていたときから水温はまったく変わっていない。  だがすこしでも休んでいたことが知れると叔母は激怒する。怠け者に食わせるものはないとまたご飯を取り上げられては堪らないから、ひさはせっせと縁側を拭きつつ、しかし耳だけは叔母と近所のおばさんの会話を拾っていた。 「今度は配膳の仕方が気に喰わなかったって。……さんのところで十年以上も女中をしていたひとでさえそうなんだから、よっぽど気難しい先生なんだね」 「単に見てくれが気に入らなかったんじゃないのかい。その先生っていうのは若い男なんだろう」 「それがねえ、……さん家の、あの別嬪で評判の娘さん、あの()も紹介だけはされたというよ。身内に高名な小説家がいれば家にも箔がつくからね。花嫁修業にもなるし、先生が手をつけてくれれば婿も決まって一石二鳥さ。  だが螢雪(けいせつ)先生、娘さんを一瞥するなりこう云ったそうだ。『うちに中身が空っぽの人形を置く場所はない』って。  実を取ってもだめ、容姿を取ってもだめ、で口入れ屋のじいさんは頭を抱えてしまっているらしいよ」 「じゃあ、まだ十一人目の女中は決まっていないのかい。……」  そう云って叔母は意味ありげに黙りこむ。  事情通のおばさんに『その口入れ屋がどこかわかる?』と聞くころにはひさは汚れた桶の水を捨てるためその場を離れており、叔母のたくらみなど知るはずなく。  まさか自分がその十一人目の女中として螢雪先生宅への道を歩くことになるなどとは、夢にも思っていなかった。
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