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七.訣別
すぐには行くな、と螢雪は勇みたつひさに云った。「敵が手薄なときに行け」
……敵。そう云う螢雪の顔は、子供が戦争ごっこをしているときのそれだ。しかも、突撃する兵隊役ではなく指令役……。
「この画、どうしようか」
ひょっとして先生は目録を取りかえすことを楽しんでいないだろうか、と不安になりながらもひさは紫陽に顔を向ける。
「これまでなにもなかったんだ、その画に障りがあるとも思えないが」不安なら寺にでも預かってもらえ、と螢雪が返す。紫陽は曖昧に返事をした。
「──この世に存在しない字を残していく、放浪の絵師、か……」
雨の日は霞屋も客足が鈍い。妙齢の婦人がふたり反物を見ているだけだ。
もっとも彼女たちの主な目的は若旦那に会いにくることだったようで、奥からでてきた紫陽を見ると華やいだ笑顔で声をかけてきた。紫陽も如才なく笑みを返す。
仕事にもどる彼に手早く別れを告げ、店をでようとしたら螢雪が棚にならんでいる鮮やかな反物をしげしげと見ていることに気がついた。自分の着物を新調するのかと思ったが目の前にあるのは女物だ。
「……?」
紫陽ならともかく螢雪がこの棚になんの用だろう。首をかしげながらひさが彼の隣に行くと、「これなんてどうだ」とおもむろにひとつを顎で示して云った。
──どう?
「その着物も見飽きた」螢雪はひさの顔を見ないまま、「おまえ、着物くらいは仕立てられるだろう。買ってやるからそれを着ろ」
「…………」
どう、の意味がようやくわかった。螢雪はいまひさが着ている朝顔の着物をやめてこっちを着ろと云っているのだ。
でもこの着物はもらったばかりだ。それも紫陽に。
そんな贅沢はできないとひさは遠慮したが、「俺の云うことが聞けないのか」と螢雪はふてくされたように返してくる。
螢雪が示したのは業平菱の柄の反物だ。有名な歌人、在原業平がこの柄の着物を好んで着たことからこの名で呼ばれるようになったという。
淡い黄檗色の上に灰桜色の菱形が隙間なく描かれ、その中に咲いた四枚の花びらの文様が可愛らしい。
花びらは上から時計回りに桃花色、向日葵色、木蘭色、浅縹となっており、どうやら四季を表しているようだ。色も柄も季節を選ばないし、これなら通年通して着られる。
帯にはどんなものがふさわしいだろう。帯留めは。髪飾りは。
見れば見るほど素敵な柄に心が動く。
でも新しい着物をもらったばかりなのに……と揺れていると、「おい、紫陽」と接客中の紫陽を螢雪が呼びつけた。紫陽は女性たちの相手を番頭に任せ、螢雪の云いようは耳に入っていたのだろう、「どういう風の吹き回しさ」と近寄ってくる。
「あんたがうちで買いものしたことなんて一度もないくせに」
「野良にはこの色のほうが似合う」
紫陽は袖で自分の口元を隠した。猫のように笑い、「霞屋で育った私に挑戦状かい」と云う。
螢雪は腕組みをして聞こえなかったふりだ。
いったいどっちの立場に立てばいいのかひさが迷っているうちに決着がついたらしい。「ま、あんたが借しじゃなくきちんと買いとることなんてめったにないからね」と紫陽はさっぱりした表情で云い、お夏を呼んで用意をさせた。
ひさはあわてて螢雪に頭を下げる。
螢雪はずっと仏頂面をしていた。
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