822人が本棚に入れています
本棚に追加
/161ページ
一本の傘をふたりの間にさしかけるのは螢雪なので、購入した反物はひさが抱えることになる。濡れないように風呂敷で包んでもらったそれをきつく抱きこんだ。
「……そのうち、」
雨の中を歩きながら螢雪がつぶやいた。ひさは彼の顔を見るが螢雪は続きを云うことなく口を閉じる。その前に一瞬、彼の目がひさの髪にあった気がした。
『そのうち髪飾りも買ってやる』
彼はそう云おうとしたのかもしれない──。
このまままっすぐ家に帰るのかと思ったが、坂の手前にある長屋通りに螢雪は入っていった。ここになんの用かと訝しく思いながらひさも歩調を合わせていると、彼はそのうちの一部屋の前で足を止める。
「侑。いるだろう、でてこい」
まだ声変わりしていない少年の声が返事したかと思うと、戸が内側からがたがた云いながら開いた。自分の頭よりも大きな学帽をかぶった、つぎはぎだらけの着物を着た少年が細い戸の隙間からでてくる。
年の頃は十歳か、それよりも幼いか。だが帽子の下の大きな瞳には擦れたような色があり、それが彼を外見よりも大人びて見せていた。
「──螢雪先生。先生がきたってことは、おれに仕事……」と云いかけた彼の口が螢雪の横にいるひさを見て止まる。
ひさは会釈をしたが、彼はびっくりしたように固まったままだ。螢雪は特に気にした素振りもなく「ああ、仕事だ」と答えた。
「おまえにいまから云う家のことを調べてほしい」
「……、」
「侑。聞いているか」
「──えっ? う、うん、聞いてたよ」
ひさについては何の説明もしないまま、螢雪は七緒家の場所と家族構成を告げる。「ここが手薄になる時間帯を調べろ」
「無人になる時間、ってこと?」
「いいや。できれば父親以外、母親か娘がひとりきりになる時間を知りたい」
「ふーん」
侑と呼ばれた少年は自分の耳たぶを引っぱったあと、「いいよ」と返事をする。「先生、期間は?」
「ひとまず七日としておこう。ほかにもわかったことがあればすべて俺に話せ」
「任せて」
ひさの目を気にしてだろう、やや緊張した動作で侑は学帽をかぶりなおす。「馬影町の遊撃隊の名にかけて。完璧にやってみせるから」
螢雪は彼に手付金を渡し、これからは十全な報告と引き換えに報酬を渡すと約束して侑と別れた。行くぞと声をかけられ、今度こそ雲行坂に向けて歩きながらひさは彼の横顔を見上げる。
あれも昔からの知り合いだ、と螢雪は前を見たまま答えた。
最初のコメントを投稿しよう!