七.訣別

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「高等中学をでたあとしばらく霞屋に厄介になっていたが、そのうち小説だけで生計が成りたつようになったから適当な部屋を見つけて移り住むことにした。それがさっきの長屋だ。侑とは出会ったのはその頃だ」 『牛鍋会』ではでなかった話だ。ひさはちらりと長屋を振りかえる。  いまは悠々自適に暮らしている先生がああいった古い家で暮らしていたことがあるなんて想像もしていなかった。 「あいつは学校には行かずに奉公人として働いていたが、手癖が悪くてどこもすぐ馘首になる。そのうち働くのをあきらめて掏摸(すり)として稼ぐようになった。しばらく金持ち相手に順調にやってたみたいだが、なにを血迷ったか紫陽相手に一仕事働こうとしてな。  ふたりでとっつかまえたはいいが警察に引きわたすのも面倒だった。だから目の届くところにああして住まわせて、用があるときにこき使ってやっている」  いまの家につれてくることは考えなかったのだろうか。そう思ったが、侑が住んでいたあの部屋からかすかに白粉の──大人の女性の匂いがしたことを思いだす。  少年は母親と一緒に暮らしているのか。だが螢雪が挨拶もしなければ母は留守かどうか尋ねることもしなかった。あまり懇意にはしていないのだろう。  それからは、とひさは目顔で尋ねる。 「それから?……ああ、侑じゃなくて俺の話か」と螢雪はつぶやいた。 「あの長屋には──結局、三年はいたか。  途中、……どうしても小説が書けなくなったから紫陽が案じてどこからか英語塾の講師の口を持ってきた。なにかする気にもなれなかったが、あいつの顔をつぶすわけにもいかない。仕方なく引き受けた。  そこで出会ったのが石丸だが、あいつはすこしでも気になると細かいことでも徹底的に聞いてくる性質(たち)でな。喧しい、自分で考えろと云うといつまでも考えている。出来は悪くないのに頭が悪い。下手な生徒よりも手を焼いた。  ……そんなことをしている間に一年経っていて。俺は再び万年筆を握るようになった」  その翌年、彼は英語塾を辞めて坂の中途にあるあの家に引っ越したのだという。 「棲家がすこし広くなった途端、裏の(たぬき)夫人の紹介で口入れ屋のじいさんが女中を紹介してくるようになった。  だがどいつもこいつも使いものにならん。すこし目を離すと手を抜くわこっちの私情を覗き見しようとしてくるわ、ろくなものではなかった。俺が台所に入らないのをいいことに米を盗んで売っていたやつもいたな。  俺は手伝いなぞなくていいのに向こうから勝手にやってくるんだ。この世には騒がしい、ろくな言葉を持たないやつらばかりで」  雨の音に隠すようにして螢雪はぽつりとつぶやく。「……俺がそばにおいていいと思えるのは、ほんの一握りだ」  その『一握り』に自分も入れてもらえたのだろうか。ひさが螢雪の横顔をじっと見つめると、彼は空いているほうの手で頬を掻く。視線がかゆいとでも云うように。  雨はまだ止む気配を見せないが。  ふたりの帰り道は、行きよりもずっと優しいものに感じられた。
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