七.訣別

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 雨は皐月の最後を雨で滲ませるように降りつづき、暦が水無月に変わる。走り梅雨だな、と螢雪が障子窓を見ながらつぶやいた。  氷雨は雨宿り先をこの家に決めたようだ。たまに外にでたいという身振りをするのでだしてやると、半刻ほど姿を消して毛をしっとり濡らした上で帰ってくる。  いまでは庭に続く障子戸のそばに氷雨の体を拭く用の手ぬぐいと、彼女の布団がわりの主人の古い着物(ひさが見ていないときに螢雪があげたらしい)が常備されている。  あの"来訪"以来、螢雪は編集者との打ち合わせを家でやるようにしていて、郵便局まで手紙をだしにいくときなどなにか用があってでかけるときは、いつものように遊びにきた紫陽か調査報告にくる侑に留守番を頼むようにしていた。  そうやって彼が気を遣ってくれているおかげだろう。寝室でひとりで眠るときももうあんな不安は襲ってこない。氷雨も自分専用の寝床ですうすう眠っている。  日中、来客がないときはひさは螢雪の書斎にいて、読書をする彼の後ろで買ってもらったばかりの反物を着物に仕立てている。氷雨がいないときに裁断し、帰ってきた彼女に針仕事をしているときはじゃれつかないようよく目で云い聞かせ、一針一針、丁寧に縫いあわせていく。 『ひさが大きくなったときに困らないように』──。そう云って母は一通りの家事をひさに教えてくれた。まさか、こんなに早く役に立つときが来るとは思わなかったけれど。 『ひさがもうすこし大きくなったらこの振袖をあげるからね』  体は針の先に集中しているが、心は過去へとたゆたっていく。  母が一番気に入っていた振袖。もう着られる年ではないと虫干しのときにしか見る機会はなかったが、緋衣(ひい)の空を仲睦まじげに飛ぶおしどりの図をいまもよく憶えている。  金糸で縁取られた菊や梅の花はそれ自体が光を放っているかのように華やかで、指でなぞると金粉が舞うように細やかにきらめいた。  けれどなによりもきれいなのは母自身で、おかあさんが着たところが見たいとひさにねだられて母が緋色の着物を羽織ると、昔話でしか知らない天女がそこにいるかのようだった──。  ひさが見とれていたのを勘違いしたのだろう、母は『ひさがもうすこし大きくなったら──』と約束してくれた。ちがう、この振袖は母にしか似合わない。母にずっと着ていてほしい。  幼かったひさがどんなふうにその思いを伝えたのかはもう記憶にないが、そんなことないよ、と母はひさと目線を合わせて云った。 『おかあさんがこの振袖が似合うのはね……』  ──でも、もう、私があの振袖をおかあさんからもらうときは二度とこない。  縫い目が乱れそうになって、ひさは急いで追想を振りきった。  螢雪先生が初めて買ってくれた反物だ。一針たりともおろそかにしたくない。
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