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「近所のひとたちが噂してたんだけどさ。昨日の夜、大喧嘩してたらしいよ」
侑が調査を開始して五日。一日の報告をしにきた彼が螢雪の顔を見ながらそう云った。
螢雪宅の居間だ。ひさが用があるふりで台所に一旦もどってからまたもどってくると、やっぱりお茶請けにだしたお饅頭はふたつになっている。
消えているのは螢雪先生の前においたもので、まるで彼が一瞬で食べてしまったかのようだが、螢雪も侑も素知らぬ顔なのでひさも気づかないふりをした。
「内容は?」
「なんかさ、親父が賭博に手をだしちゃったんだって。それだけはやめてって云ったのにっておばさん泣き叫んでたらしいよ。でも親父は聞かなくて、今日は昼間っから酒を飲みにでかけてた。帰ってきたのは夕方になってから。べろべろに酔ってて、親切なひとが送ってくれなかったら自分の家にも帰ってこれなかったんじゃない」
「明日も出かけそうか?」
「たぶんね。外で飲むのはやめて、外聞が悪いじゃないか、っておばさんが怒鳴ってたから。それでまた喧嘩。明日も拗ねて飲みにいくと思う」
「娘は昼間は学校だな」
「うん。で、帰ってきたら近所の子たちを家来みたいに侍らせて遊んでんの。お姫さまって面でもないのにさ」
大人びた、というよりも醒めた口調だ。彼には叔父も叔母もおみつも──彼女に従う子供たちもみんなくだらない人間に見えるのかもしれない。
「ねえ、そろそろ教えてよ。あの家っていったいなんなの? たいした悪さもできなさそうに見えるけど」
「すべて終わったら話してやる」
「ほんと? 絶対だよ」
侑は家にきてからずっとひさのほうを見てこない。一応、挨拶はしてくれるしお茶とお菓子を前に置いたときは小さな声で「……ます」と云ってくれるので(たぶん『ありがとうございます』と云っている)、嫌われているわけではないと思うのだけれど。
侑がお饅頭をほおばるところをなんとなく見ていると、「野良」と螢雪に呼ばれた。ひさは彼に視線を向ける。
「どうだ。明日、叔父と従妹がいないときを見計らって行くか」
「……、」
父の目録を取りかえしに、だ。
急に指先の感覚がなくなった。叔母がいるあの家にいること。そのことを考えただけなのに、地面にぽっかり穴が開いてしまったかのような恐怖に襲われる。
……すこし前まではあそこでの暮らしが『日常』だった。離れた途端、こんなに怖くなるなんて。
ひさは膝の上で自分の手を重ね、螢雪に向けてこくりとうなずく。「暇だからついていってやってもいいが」と彼は云うが、有名な作家である螢雪とひさが繋がっていることを知られたら彼にも迷惑がかかるかもしれない。
父たちが残した遺産は有限だ。それが尽きたときの寄生先に彼にだけはなってほしくなかった。
『なので……』とひさはふたりに見えるように『いろは歌』を畳の上に置く。
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