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翌日はひさの決意を照らすように晴れわたった。
お天道さまも自分を応援してくれている。まだ地面が湿っている裏庭に立ち、ひさは水で洗ったように瑞々しい朝の太陽を見上げて深呼吸する。気合を入れるためにいつもより丁寧に家の掃除をした。
もし螢雪先生が起きてこなかったら書き置きを残して行こうと思っていたが、先生はしっかり昼前に起きてきた。ただしふらふらだったので裏の井戸までひさが支え、彼が台に載せた盥に顔を突っこんで顔を洗ったあと(ほんとうにこれでいいのかひさはいつも疑問に思っている)、びしょ濡れのまま家にもどろうとしたので自分の手ぬぐいで顔を拭いてあげたのだけれど。
そして、昼近く。きちんとやってきた侑から「おっさん、でてったよ。姫さまも」という簡潔な報告を受けとった。
「ならいま家にいるのは母親ひとりだな」
「そーいうこと」
支度をしろ、と螢雪に云われてひさは動いた。桐箪笥からあちこち擦りきれた着物を取りだして袖を通し、鏡台の前に座ってきれいに櫛を通した髪をわざとくしゃくしゃにしてから紐で簡単に結う。
それでもここにくる前のひさとそっくり同じにはならないが──すこしの間ならば誤魔化せるだろう。ひさは立ちあがろうとして、いつもの習慣で身につけた桜葉の本と螢雪手書きの『いろは歌』を鏡台の上に置きなおす。
万が一見つかって取りあげられでもしたら生きてゆかれない。それくらい、このふたつはひさの中で大切なものになっていた。
「女中さんにはちょっと見えないんだけど。あのひと、先生のなんなの?」
「当ててみろ」
「隠し子?」
「…………」
襖を開けると螢雪が侑の頭を上からぐりぐり押さえつけていた。ちいさな子をいじめてはいけません、とひさは螢雪の袖を引く。
「俺が悪いというのか……」
なぜか傷ついている螢雪はおいておいて、ひさは侑に草履を借りていいか身振りで尋ねる。「……ん、まあ、先生の頼みだし」と帽子を深く被りなおして侑は答えた。ありがとう、とくちびるを動かしてひさは玄関に向かう。
侑の草履は泥まみれだ。それにあちこちほつれて藁がところどころ飛びだしている。
母親はこれで気にしないのだろうか。不思議に思ったが、男の子ならきれいにしてもまた汚してきてしまうと放っておかれているのかもしれない。ほんのすこしだけ大きな草履に足を入れ、螢雪を振りかえる。
ふむ、と螢雪は顎に手を当てた。
「ここにきたときのおまえはもっとびくびくしていたぞ。そんなふうに背筋を伸ばすな」
「……、?」
「そうだな。もっと云うならいまより痩せていたし血色も悪かったが、それはやりようがないからな。せいぜい人間にいじめられた猫みたいな顔をしていけ」
ここにきたときの自分はそんな顔をしていたのだろうか。よくわからないが、たまに氷雨が『それは私のごはんだと思ったのに……』と云いたげな顔をすることを思いだして真似してみる。
「よし、よくなったな。ついでに着物の一枚や二枚かっぱらってこい」
好き勝手云っている螢雪と帽子の下からこっちを見ている侑に見送られ、ひさは螢雪家の玄関をでる。
とても上等とは云えない格好をして坂を下ってゆくひさに近所のひとたちが目を丸くする。「梔子さん、いったいなにがあったの」と聞いてくるひともいたが、説明している時間が惜しいので『心配しないでください』と首を振るだけに留めた。それでもみんなぽかんとしていたけれど。
あの日たどった道を今度は反対側から歩いていく。
景色が次第に見慣れたものになっていくにつれて心臓の鼓動も早まったが、足取りが鈍らないようにひさはしっかり前を見て歩きつづけた。
命を奪われた両親のために。
なによりも、螢雪に出会うまで無力だった自分自身のために。
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