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ダブルクラッチ ハナノビナオル
キュキュッというバスケットシューズのすれる音が、絶え間なく聞こえ、選手たちは獣のように荒い息を繰り返しながら走っている。
第53回全国中学校バスケットボール大会決勝戦は、かつてない熱気に包まれていた。メガホンを持ち、かすれた声を絞り出す応援席。そこにいる全員が、人生で一番の大声を張り上げて、両チームを応援している。
しかし、コートに立つ選手たちには、その声はもはや聞こえていなかった。夏の暑さと疲労で白くもやがかかった脳内では、応援席に支えられていることへの自覚で勇気を取り戻す余裕などは到底ない。彼らの頭にあるのは、ただギトついた、汗まみれの勝利への執念だけだった。
残り時間、あと12秒。スコアは一点差の状況で、ボールは浦崎中学校キャプテンのに渡った。
これが、最後のオフェンスになる。ここで決めなければ、負ける。勝は、一度ボールをついて深く息を吸った。
酷使され傷ついた気管に入った空気は、なんだかひどく甘く感じられた。
よし、と心のなかで呟いて、勝は一気にゴールへとドリブルで進んでいく。前をふさごうとしたディフェンスを、左右に揺さぶった後、縦に切り返して抜き去ると、光り輝くゴールへの道筋ができた。そして、ゴール前までたどり着き、ボールをその手から放とうと飛び上がったとき、追いついたディフェンスが負けじと大きく飛び上がりシュートコースがふさがれた。
「まさる、パス!」
しまったと思った瞬間に、後ろからチームメイトの声が聞こえた。シュートしようとした手を翻し、後ろへと思い切りボールを投げる。
ほとんど、状況を確認せずに放ったパスだったが、幸いにもチームメイトにディフェンスはついておらず、ボールは邪魔されることなく渡った。しかし、ゴール下まで再び攻める時間はもうない。
「打て!!」
勝が叫ぶが早いか、渡ったボールはゴールに向かって放たれた。
親の顔より向き合い続けてきたボール。中学三年間打ち続けてきたシュート。その努力の結晶たる、そのチームメイトのシュートフォームは、誰から見ても完璧で、そのシュートがゴールネットを揺らすのは必然だった。
___かのように思えた。
ガン、という金属音が静かに聞こえた。それがゴールリングにボールがぶつかった音だということを、勝はしばらく認識できなった。
だが、その直後、ブザーが鳴り響き、チームメイトがその場に泣き崩れたことで、ようやく現実を理解した。
俺たちは、負けたのだ。
ふらふらと、コートの中央に集まり礼をする。それが終わると記念撮影が始まるはずだったが、勝は気分が悪いからと、チームにことわりを入れて、アリーナ2階のトイレへと足を進めた。
試合後のトイレは、人が多いのかと思いきや静かで、先ほどまで感じていた熱が夢であったかのように冷たかった。
床にそのまま体育座りをして、勝は自分のバスケットシューズをじっと見つめていた。黒を基調に赤いラインの入った、いつもは鮮やかに輝いていたそのシューズも、今はその光が鈍くなったように思えた。
そして、彼は父を。そのシューズを買い与えてくれた、バスケコーチの父のことを思っていた。
初めて、バスケの試合に勝ったときの父の表情を、勝はいまだに忘れることができない。目を爛々と輝かせ、にっこりと笑い、自分にありったけの期待を注いでいることが何も言わなくても感じられた。
そもそも、自分のこの名が父の勝利への渇望からつけられたもので、自分は勝つためにもって生まれてきたのだということを勝は幼いころから感じていた。
別に、勝が勝つこと以外で、父が喜んでくれないというわけではない。漢字が書けるようになれば褒めてくれ、誕生日プレゼントを渡すと、恥ずかしそうに笑って頭をなでてくれた。
ただ、バスケで勝ったこと以上の喜びを父が他で示さなかったこともまた事実だった。
試合の前には必ず『勝ってこい』と、父は言った。
勝ったときには、満面の笑みで彼を出迎えた。その一方で、負けた時は一言はげますが、それ以降は明らかに落ち込み、会話が通じる状態では無くなるのが常だった。
自分にそのように大きな期待をかけてくれる父のことが、勝は好きだった。父に喜んでもらうことが、いつしか彼がバスケットをする全てになってさえいた。
そして今日、彼は負けた。父がおそらく、最も勝利を望んでいたであろう、この全国決勝戦の舞台で。
あのとき、パスなどせずに自分でシュートを打っていたらどうなっただろう。そう考えたが、その考えもチームメイトに責任を押し付けているようで、自分自身嫌だった。
勝っていたら、父はどんなに顔をくしゃくしゃにして喜んでくれただろうか。ひょっとしたら、初めて勝ったあの日よりもっと喜んでくれたかもしれない。
ああ、見たかった。
そして、今、父はどんな表情で待っているのだろうか。
考えれば考えるだけ、勝の体は石のように重くなり、その場から動かなくなっていった。
ふと、勝はトイレに湿った風が吹き込んでいるのを感じ、視線を上げた。見てみると、トイレの窓が少し開いている。
勝は、何を考えるわけでもなく、ただ病的に立ち上がり、窓へと近づいて行った。
窓の少し開いた隙間に指をひっかけ、思い切り開放する。ひゅあっ、と夏の夜の生暖かい風が思い切り室内に吹き込んできた。
窓から身を乗り出して外を見てみると、遠くで東京の街のネオンライトが、まるでミラーボールのように輝いている。
その光が、今の勝には目に痛かったので、視線を真下におろすと、駐車場があり、そこから一台の車が発進していくのが見えた。
暗闇のなかで見えたその車は、どうやら父の乗ってきている我が家の車のように見えた。その瞬間、勝は心の中の何かが、ぷつんと切れたのを感じた。
呆然とその場に立ち尽くし、車が小さくなっていって見えなくなったのを見届けてから、バスケシューズを脱ぐ。
そして、彼は何も履いていない足に力をこめて跳ね、二階の窓から飛び出した。
ふわりと一瞬体が浮いた心地がして、その後は重力に従うまま、彼の体は暗闇の中に落ちていった。
どしん、と背中に強い衝撃がはしった。体中が激痛に襲われたのもつかの間、勝は自分の体がだんだんと冷たくなっていくのを感じた。そして、指先からじょじょに、感覚という感覚が喪失していく。それからしばらくすると、何も見えない、聞こえない、感じられない。巨大な闇の布で覆われたような心地がする。体が確実に死へと向かっていることが理解できた。ただ、なぜか考えることはできた。しかし、考えることといえば、先の決勝戦の敗北のことばかりで、考えることにも次第に疲れ始めた。そのあたりでようやく、意識が遠のき始め、勝は眠りに落ちていくような心地よさに身をゆだねたのだった……………………。
突然、グイっと何者かに上に引っ張られたのを勝は感じた。でも、死んで感覚はないはずなのになぜ?
そんなことを思っていると、今度は体がグルグルと回転させられているような感覚がやってきた。さらに、その回転が続いている中で、ゆっくりと自分の体が動かされているのに勝は気づいた。しかも、その動きもまた大回りで回転しているようだった。
つまり、自転と公転を同時にさせられているような状態である。ぐるぐるバットをしながら、メリーゴーランドに乗っているような、経験したことのない回転につぐ回転に、勝は今にも吐きそうだった。
気持ちが悪い、早く終わってほしい。そういくら願っても、少しも回転は止まる様子をみせない。ただ、何千回も何万回も、時間の感覚もわからない中で、今度は意識が遠のくことすら許されずに、勝は回り続けた。
回りながら何度も何度も、勝は負けた決勝戦のことを思い出した。あの会場の熱、掌を翻してボールを放った時の、手に残ったボールの感覚……。
そのときの悔しさがなければ、勝はどうにも正気をたもっていられそうになかった。自分が自転していった数よりも多く、あのときの様々な感覚と感情とを勝は思い起こした。いつかこの回転がとまり、再び何も考えなくて済むようになるまで。
そして、その時は突然やってきた。
初めに止まったのは公転だった。ゆるやかに移動の速度が減速し続け、ゆっくりとその場に停止した。
それはどこか、目的地にバスがついたときのように、妙なおさまりの良さを感じさせるものだった。
続いて、自転が止まる。こちらは、公転とは異なり、突然で無理やりな停止だった。勝は、つんのめり、まるで電車が急停止した時のように錯覚した。
ようやく、回転から解放された!
勝は、回転が止まったことによる少しの眩暈を感じながらも、かつてない喜びで胸をいっぱいにし、そのまま意識が再び遠のいていくのを待った。
しかし、いつまでたっても意識は鮮明なままだった。
さらに、どこからか小さな音が聞こえてきた。
「……む………お…て」
なぜ、一度消えた聴覚が戻ってきている?
「…ぞむ………く……て」
疑問に思っているとさらにもう一度、音が聞こえた。
注意して聞いてみると、女の人の声のようで、どうやら自分が呼ばれているように勝は思えた。
「のぞむ!早く起きて!!」
今度は、はっきりと声が聞こえた。
しかし、のぞむとは誰だ。呼ばれているのは自分ではないのかもしれない。そう考えたところで、何かがすれるような感覚がして、急に勝は寒さに襲われた。
驚いて、思わず寝返りをうった。
寝返り?体がある。ということは生き返ったのか??
恐る恐る、目を開けようと意識してみると、まばゆい太陽の光が目をさした。
目を細めながら起き上がると、おそらく勝にかかっていたであろう掛け布団を持った大柄な女性が、笑顔でこちらを見ていた。
「おはよう、のぞむ。休日だからっていつまでも寝てるんじゃないぞ~?今日は何かする予定はあるの?」
勝は、なにがなんだか理解が追いつかなかった。しかし、その問いにだけは、はっきりと答えることができた。
「とりあえず、バスケするよ」
勝の口からでたその声は、自分のものではない、まだ声変わりも迎えていない幼い声だった。
その答えに大柄の女性は、目を見開いて、少し固まった。しかし、次の瞬間には満面の笑みを浮かべ、わかった!ボール買ってくるね、と言い残して部屋を出て行った。その笑顔は、どことなく、勝が初めて勝利した時の父の顔を思い出させるものだった。
目覚めてから数日間、勝は身の回りを観察し、今の状況を少しずつ理解していった。
まず、自分は生き返ったのではなく、どうやら生まれ変わったらしかった。机の上にあった教科書を見てみる限り、この体は小学六年生で名前は、というらしい。
そして、目覚めたとき目の前にいた女性は、望の母親だった。中田家は、父と母と望の三人で構成されており、両親は、勝、改め望に対してかなり甘かった。出かけるときには、何か欲しいものはないか確認をとってくるし、なにかにつけては、一緒にどこかに出かけないかと提案した。
勝は、その過剰な自分への干渉を不可解に思ったが、その理由は平日になると分かった。
勝には、望としての記憶は何もない。そのため、友達になじめるかどうかわからず、学校はおろか、外にもあまり行きたくなかった。そして、学校に行きたくないと母親に伝えると、返ってきたのは「今日もだめなの?」という言葉だった。
つまり、勝が生まれ変わる前の望は、不登校だったのである。
両親の干渉は、何にも関心を持たない息子になんとか刺激を与えようとしてのものだったのだ、と勝はそこではじめて気づいた。それと同時に、バスケをすると言った時の母親の心底うれしそうな表情にも納得がいった。
今の両親は、勝にとっての本当の両親ではないが、両親がバスケをしようとすることを喜んでくれることは、勝にとってうれしかった。そして、実際にこれからバスケで活躍したら、この人たちはどんなに喜んでくれるだろうと考えると、また胸が躍るのだった。
ボールを買ってきてもらって以来、久しぶりにボールに触れられる喜びを噛みしめて、勝は自宅の前の道路でドリブルなどの練習を重ねていた。
不登校で運動不足だった望の体では、最初の一週間は思ったように体が動かなかった。しかし、二週間たつころには、だんだん体も慣れてきて、ドリブルの練習にも飽きてきた。挙句、道路でドリブルをついていると、車とぶつかりそうになったり、ドリブルの音がうるさいと近所から文句を言われることも増えてきた。
これらのことを踏まえ、勝は新しい練習場所を探すことに決めた。
早朝、勝は近くの公園に地図を頼りにしていってみることにした。望の以前の友人と接触することが怖かったので、結局今まで家の前の道路以上の外出をしたことがなかった勝は、恐る恐る人目を気にしながら公園へと向かっていった。
公園は、砂が一面に広がり、その上に滑り台が一つとベンチがいくつかおかれているシンプルな構造だった。
そしてその一番奥をよく見てみると、勝の目に驚くべきものが映った。バスケットゴールだ。体育館にあるようなネットがかけられているものではなく、備え付けられた柱に裸のリングがついているだけの簡易的なゴールである。だが、勝は構わなかった。
シュートが打てる!ただそれだけの喜びが、勝を支配し、気が付くと勝はゴールに向かってドリブルで走り出していた。
脳内にディフェンスを思い浮かべ、彼らをフェイントで抜き去っていく。家の前での練習のおかげか、何度も回転の中で思い浮かべた決勝戦の記憶どおりに体が動いた。
そして、ゴール前までたどり着き、ジャンプしてシュートを放とうとしたその時、ジャンプした真横から人が飛び出し、放とうとしたボールは勝の手から弾かれた。
驚いて見ると、勝よりも10㎝ほど背の高い男が、勝から奪ったボールを指先で回して弄んでいる。
「返せよ」
勝は、低い声を出してすごんだつもりだったが、出てくるのは、いかにも不機嫌な子どもといった調子のぶっきらぼうでかわいらしい声だった。
それを聞いた男は、はっとした表情を浮かべて、すぐに勝にボールをパスし、口を開いた。
「いやー、ごめんごめん。この時間に練習しに来てる人なんて今まで見たことなかったから、嬉しくてちょっかいかけちゃった」
そう話す男は、目を線のようにして、まるでおたふくの仮面のような満面の笑みを浮かべている。
どうやら、悪意はないようだ。そう判断して、肩の力を抜いた勝に、男はさらに言葉を続けた。
「さっきのシュートすごかったじゃん。ねえ、僕と一対一しようよ。」
笑顔のままで、のほほんと提案してきた男と対照的に、勝は再び肩に力を入れた。
自分で横から入って止めておいて、シュートがすごかっただと?
勝には、その言葉は挑発にしか聞こえなかった。
しかし、不快感よりも先に、勝は自分の心臓が楽しそうに脈打ち始めたのを感じた。心臓が一打ちするたびに、体が心地よい熱を帯びていく。
「いいよ、やろうぜ」
にやりと笑って、勝はそう答えた。
二本シュートを決めたほうの勝ち、とルールを決めて、一対一が幕をあけた。
まずは、勝がオフェンスをする番だった。
落ち着いてドリブルで左右に揺さぶり、抜き去る機会をうかがう。だが、男は、腕一本ほどの距離を保って、その揺さぶりにしっかりとついてくる。
しばらく様子を見ていたが容易に抜ける様子はない。勝は、一度前にドリブルするふりをして、後ろに下がり、そこからシュートを放った。
「あっ」
男は、シュートを防ごうと前に距離をつめたが、反応が少し遅れて防ぎきれず、ボールはゴールへと向かっていった。
しかし、しばらくシュートを打っていなかった勝のシュートはゴールリングまで到達せず、それより小さい放物線を描いて、ぽとりとゴールの手前に落ちた。
「あ~、惜しかったね」
「命拾いしたな」
憎まれ口をたたきながら、勝は男にボールを渡した。
男のオフェンスが始まる。
「おりゃっ!」
その言葉とともに、抜ける機会をうかがっていた先ほどの勝とは逆に、男はボールを受け取るとすぐにゴールに向かって突っ込んできた。
勝は、冷静に突っ込んでくる男の前に入り、ゴールに向かわせまいとする。が、そんな勝に対して男は押し込むようにしてドリブルをついて進んでくる。
同じ身長ならまず通用しないプレーだが、男と勝の間には大きな体格差がある。しかも、勝は少し前まで不登校。おそらく、今までもバスケをしてきたであろう男とは筋肉の量にも差がありすぎる。
その圧倒的なフィジカルに負け、勝はぐいぐいとゴール下へと押し込まれ、男はくるりとターンして体勢を整え、悠々とシュートを打つ。
打つというよりは、ゴールにそっと置かれるようにしてボールはリングの上に乗り、くるりと一回転してリングを通った。
「よーーーし」
小さくガッツポーズを決める男。
勝は、ボールを拾い上げ、すぐにオフェンスの体勢に入る。
すると、今度は男は腕一本よりも、少し間を開けてディフェンスの姿勢をとった。
「なるほど。入らない遠距離シュートは打たせて、ドリブルだけ防ごうってわけだ」
勝の言葉に、男は何も言わずに微笑んでいる。
勝の弱点を把握し、フィジカルで押し勝てることもわかった今、男の表情には確かな余裕があった。
しかし、そんな様子の男を見て、勝もまた口角をあげる。
「甘ぇよ、それ」
そう言うと同時に、勝はその場で足を曲げたあと、大きく跳ねてシュートを放った。
そのシュートは、先ほど放ったものよりも遥かに大きな放物線を描き、もはや男がジャンプして手を伸ばそうが届かない。
誰にも触れられないままボールは数秒間空を飛び、そして、まっすぐにゴールリングへと落ちてくる。
するり、とリングにかすることなく、リングの円の中心をボールが美しく通過した。
「二度も同じミスはしないんだよ、こちとら」
キッと勝は、男をにらみつけた。
それを見て、男の顔から笑みが消えた。代わりに、その目には勝利への炎が現れる。
もはや何も言葉は発さず、ゴールに向かっていく男。
そして、それを勝が前に入って咎めたところで、男と勝の体は密着した状態になり、男は先ほどのオフェンスと同じように、勝を押し込む体勢に入った。
ダン、と力強いドリブルを一度すると同時に、男が体で勝を強く押す。体重差から勝は少し動かされた。しかし、体はいまだに密着したままだ。
そこで、男がもう一度ドリブルをつき、再び体を押し込んだその瞬間、勝は一歩後ろに飛んだ。
押し込もうとした対象を失って、男の体勢が崩れる。そして、その手からボールが離れた。
あっ、と男が声を漏らしたのもつかの間、勝はこぼれたボールを即座に拾い上げていく。
「それも二度は通じないぞ」
「……そうみたいだね」
勝が攻める体勢に入ると、男は今度は腕一本分の距離でディフェンスの姿勢をとった。
こうなってしまうと隙がない。なにせ、勝と男との間では、歩幅が明らかに違う。ドリブルで少し揺らしたくらいでは、一度目のオフェンスの時のように、平気でついてきてしまう。
できるだけ不意をついて、スピードで抜き去るしかない。そう決意して、勝は前へのドリブルを仕掛けた。
男の首がピクっと驚いたように動き、少し反応が遅れる。
その遅れをさらに大きなズレにするために、勝は、後ろへと下がり、シュートポジションに入った。
ただし、それは一度目にも見た動きだ。男は、その動きを先読みし、大きく一歩踏み出してシュートを打てないように距離を詰め、シュートを防げるように両手を上げる。
男もまた、二度も同じミスはするまいと考えたのだろう。
しかし、そこには誤算があった。
勝とて、二度目があるプレーなどしないのだ。
勝は即座にシュートポジションをやめ、両手をあげてがら空きになった男の脇腹の横を通り抜ける。
そうして目の前に映るのは、誰にもふさがれていない至近距離のゴール。ひょい、と放り投げるようにして勝は手首のスナップだけでシュートを放つ。
ゴミ箱にティッシュが投げ入れられたかのようなあっけなさで、ボールはゴールへと吸い込まれた。
それを見て、男は笑いながら、されども悔しそうに、その場に両膝をついて崩れ落ちた。
そして勝もまた、ゆっくりと満足げに、地面に倒れこんだのだった。
しばらくの間、二人はお互いに何も言わず、公園には、ただ二人の荒い息遣いだけが聞こえていた。
だんだんと呼吸が整い、公園に流れるものが息遣いから沈黙に変わったころ、男は口を開いた。
「僕の名前ヒリューっていうんだけど、君の名前は?」
「……のぞむ」
思わず、勝と答えてしまいそうになったのを飲み込んで、勝はボソボソした声でそう答えた。
「いい名前だね。のぞむは小学生なの?」
「……そうだよ、小6」
自分の年齢が変わったということに、まだ今一つ馴染んでいないため、いちいち言うのにためらってしまう。
なんだかぶっきらぼうに聞こえたのではないかと少し心配で、体を起こしてヒリューのほうを見ると、ヒリューはなにやら目を輝かせてこちらを見ていた。
「え!すごい!!同級生なんだ。ねえ、僕とミニバスやらない?」
ミニバスとは、小学生を対象にしたバスケ競技だ。通常のバスケより、コートが小さいなど若干のルールの違いがある。
勝は、人とするバスケットボールに飢えていた。そのため、ヒリューの提案はかなり魅力的ではあった。
「でも、今から入って俺は試合に出られるのか?」
「大丈夫!直近の大会はもう終わっちゃったけど、冬の引退試合には間に合うよ」
そうは言っても、勝は中学生が生まれ変わった存在である。そんな自分が、小学生バスケに混ざってもいいのだろうか。そう考えると、勝はそれに素直にうなずくことはできなかった。
勝が何も言えずにうつむいていると、ヒリューは再び口を開いた。
「もちろん、のぞむに来てほしいのは、戦力になるっているのもあるんだけどさ。それ以上に、のぞむのプレーがもっと見たいんだ」
そう言うと、ヒリューは照れくさそうに鼻の下をこすった。そして、勝の目の前まで歩いてきて、座り込む。
「今日の一対一を見ていて、のぞむは僕にないものを持っている気がしたんだ。僕は、楽しくバスケできれば何でもよかったんだけど、勝は勝つことにこだわりを持っていて、それがすごくかっこよくて………」
そこで、ヒリューは言葉を切った。そして、何かを決意したような表情を浮かべて、ゆっくりと立ち上がり、倒れこんでいる勝に向かって手を差し伸べる。
「僕は、君みたいになりたい。僕と一緒にバスケしよう」
そう言って、ヒリューは目を細めて笑った。
その表情は、どこかで見たような、あふれんばかりの期待に満ちていた。でも、それは勝に対しての期待でもあると同時に、おそらくヒリュー自身への期待なのだろう、と勝は思った。
勝の可能性というもの以上に、自分の可能性を信じて期待をかけている。そんなヒリューの様子が、勝にはたまらなく眩しかったが、目を背けたくはならなかった。
むしろ、その光をもっと見たいとさえ、思ったのだった。
「させてくれ。一緒に、バスケ」
勝はそう言って、差し伸べられた手を掴んだ。
その手は、じんわりと温かかった。
右に左に、足を通したり、後ろを通したり、細かく刻まれるドリブルにディフェンスは全く対応できなかった。縦方向に切り込まれたと思った時には、既にシュートが決まっている。速さが、ハンドリングが、シュート精度が。あらゆる全てにおいて、勝の技術は小学生の持つそれでは無かった。
ミニバス、デビュー戦にして引退試合。今まで、誰も知らなかった勝という選手の存在は、相手チームに大きな混乱をもたらした。
二人がかりで、止めに行こうとすれば、勝に引き付けられて手薄になったスペースにヒリューが飛び込んでパスをもらう。
そして、ヒリューはその身長を生かして、自らシュートを叩きこむ。
ヒリューと勝の二人のコンビネーションで、点差は見る見るうちに開いていった。
いや、それはコンビネーションとは言えないものかもしれなかった。勝というプレイヤーを観察し続けたヒリューだけがチームで唯一、勝のプレーに、必死に食らいついているだけであるとも言えた。
実際問題、パスを受け取ったヒリューが自らシュートを打ちに行くよりも、ヒリューが再び勝にパスを返し、勝がシュートを打ったほうが、遥かにシュート成功率は高かった。
勝つ。もっと圧倒的に、誰も届かないところまで。
いくら、点差がついていっても、勝は攻撃の手を緩めない。そして、ヒリューも歯を食いしばってそれに追従していく。そのコートには、まるで勝とヒリューしかいないかのようだった。
ビーッというブザーが鳴り、試合が終わる。
試合結果は、74対20。そのうち、50点ほどは、勝が決めただろう。
「ありがとうございました」
そう言って、頭を下げた相手チームの顔には、悔しさも何も表れていなかった。ただ、呆然とそこに立ち尽くすだけ。自分の中から何か奪われたかのように。
それとは対照的に、勝のチームメイトは口々に、勝に『勝のおかげで勝てたよ。ありがとう』と言って嬉しそうにその場を去っていくのだった。
試合が終わると、勝は飲み物を貰いに行くとチームメイトに伝え、真っ先に両親のもとへ向かった。
「勝ったよ。お父さん、お母さん」
勝がそう言うと、父も母もニコニコして頷いた。
「すごいねぇ、のぞむ。あんなにうまくなるなんて、お母さん、思ってなかったよ」
「おめでとう。お父さんもビックリしたよ。バスケを通じて、お友達もできたみたいだし、のぞむがバスケに出会えて本当に良かった!」
そう言って、父と母は笑い、今夜は美味しいものを食べに行こうか、とか、中学の部活も楽しみねぇなどと言いあっている。
あ、違う。
二人が嬉しそうに祝福してくれる中、勝の脳内に流れたのはそんな言葉だった。
二人は、もちろん我が子が試合で勝利したことは嬉しかっただろう。それでも違うのだ。二人が見に来ているのは、我が子が成長し頑張る姿であって、勝が生み出す勝利を見に来ているわけでは無い。
でも、勝はここに勝ちに来た。勝が価値を見出しているのは、あくまで勝利だ。そして、その勝利で人が喜んでくれるのが嬉しくてここまでやってきた。
二人は、もし勝が県大会に出場すれば褒めてくれるだろう、全国大会に行ったら、プロになったら、一緒になって喜んでくれるに違いない。
でも、そこに強い望みは無い。それを期待しているわけでは無い。勝の父が勝に与えた、あの大きな期待は、望においては、彼が健やかに育って欲しいという望みなのだ。
同時にわかった。きっと、ズレているのは勝のほうだ。
普通なら、その成長を何よりの望みにしてくれることが、子供にとっても一番ありがたいのだ。
今、期待されているわけでも無いのに、勝利に価値を見出して、それに向かっているのが異常なのだ。
きっと、勝ちにそのものに価値なんてないのに。
「なあ、本当に勝つことに意味なんてあるのかな」
帰り道、二人きりで歩く途中、勝はヒリューにそう声をかけた。
その言葉を聞いた瞬間、ヒリューの目が大きく見開かれた。そして、ぐっとこぶしを握り締めて、勝のほうに向きなおって言った。
「どうしたの、急にそんなこと言って」
「それは………」
勝は、黙り込んだ。その理由は、言葉にすればあまりに幼稚で、伝えるのは憚られる気がする。
でも、それを伝えないことは、ヒリューに対して誠実では無いとも思った。勝は両者を秤にかけ、プライドを捨てることにした。
「親が、もっと、喜ぶかと思ってたんだ。俺が勝ったら。
それに対して、俺はきっと……期待をしてて、それを目指して頑張っていたんだと思う。今は……その頑張りが無駄になったみたいな気がしてるんだ」
絞り出すようにポツポツと、勝は言葉を吐いた。
ヒリューはそれを黙って聞き、聞き終わると大きくため息をついた。
少し考え込んだあと、ヒリューは言った。
「じゃあ、明日からは頑張らないのか。そうなったら、お前は何をするんだ」
勝は考えた。頑張らない。なら、勝つための戦術は考えなくていい。練習のメニューも考えなくていい。なら何をするのか………。
そうなったならもう、勝は何をするかも思いつかなった。それを考えずにするバスケは、勝はどうしてもしたくなかった。その反面、バスケはどうしてもしたかった。
両親がそこまで求めていなかったとしても、もはやバスケで勝つこと以外では満たされない。
「頑張らないのは嫌だ。俺は、バスケがしたい」
ヒリューのほうをまっすぐ見て、勝はそう宣言した。
ヒリューは、ふうと息を吐いた。しかし、勝には、それは溜息とは別のものであるように感じられた。そして、ヒリューはいつもの笑顔に戻って言った。
「じゃあ聞かせてよ。のぞむが何を目指して、バスケをしているのか」
それを聞いて、勝は、自分が持っている勝利への欲望がなぜ湧き上がっているのか、もう一度考えた。
考えた結果行き着いたのは、全国決勝戦だった。回転の中で何度も反芻した、あの敗北の悔しさは、まだ消えていない。
そして何より、勝つことを望まれて、もって生まれた男だったから。だからこそ、自分は勝利を求め続けるのだ。息を吸い込んでヒリューへと向きなおし、口を開く。
「まず、変なこと言うけど、俺のことは、今度からマサルって呼んでくれないか」
「本当に変なこと言うね。なんで?」
「たぶん、俺は結局、ノゾムじゃないんだと思うから」
勝のその返答に、ヒリューは少し首を傾げたが、わかったよと答えた。ありがとう、と一言返して、勝は再び口を開いた。
「それで、目指しているのは中学バスケ全国優勝だ」
ずいぶん急だなと言われるのではないか、と、勝は思った。なにせ、さっきまで勝つことの意味を問うた男が、勝利主義の極みのようなことを言い出したのだから。
しかし、そんな勝の予想に反して、ヒリューは微笑みながら言った。
「なるほど。じゃあ、頑張らなきゃいけないね、マサル」
それに対して、勝もやはり微笑んで返した。
「そういうことだ」
話しながら歩いていくと、二人の進路が分かれる十字路が見えてきた。じゃあ、また明日、と言いかけて勝はふと気になったことを聞いてみる。
「そういえば、ヒリューは何を目指してバスケしてるんだ?」
それを聞いて、ヒリューは一瞬下を向いた。しかし、次の瞬間には、すぐに顔を上げていつもの笑顔で答えた。
「いつか、僕のおかげで勝てた、って言われるような試合をすること、かな?」
そう言ったあと、ヒリューは、じゃあねーと一言残し、手をひらひらと振って逃げるように帰っていった。
ヒリューがいなくなった後も、勝の頭の中では、ヒリューの言葉がぐるぐると回転し続けていた。
そして、試合後の濡れた服を、冬の夜風がさらに冷やし、勝を家に帰るように促すまで、勝はずっと十字路に立ち尽くしていたのだった。
中学生になり、勝とヒリューは同じバスケ部に入り、日々練習を積み重ねていった。
勝は、全国優勝を宣言してからというもの、ある技を特に力を入れて練習するようになっていった。
それは、「ダブルクラッチ」である。「ダブルクラッチ」とは、シュートを打つためのジャンプの滞空中に、一度シュートをやめて腕を一回転させ、もう一度打つ技だ。
一度目に敗北した全国決勝戦で勝は、滞空中にシュートをブロックされそうになり、味方にパスをして失敗した。
これを習得できれば、シュートコースを塞がれたとしても、人にパスせず、自分でシュートを打つことができる。そして、自分でゴール下シュートを打てれば、人にパスするよりもはるかに確実に得点できる。
勝はなんとしてでも完璧なダブルクラッチを習得しようと奮闘していた。
そして、ヒリューもまた、徹底的な基礎練習を日々行いながら、相変わらず勝の動きを観察し、それに食らいつけるように準備を重ねていた。
しかし、ヒリューと勝のコンビネーションが見られることは無かった。
原因は単純な話で、部活の他の人間がさらに強かったというだけだった。勝が、1年生のうちから試合に出場し、先輩たちとともにプレーをしている間、ヒリューはほかの1年生とともに、タオル持ちをし、休憩に戻ってきた先輩をうちわであおいでいた。
2年生になれば、ベンチに座れるようにはなったが、交代で出場する機会は極めてまれで、いつも応援とスコア集計が彼の仕事だった。
3年生になると、ベンチから交代で出る機会は少し増えたが、それでも出場できるのは、点数に余裕があるゲームか、誰かがけがをしたタイミングだけだった。
ミニバスは、健全な青少年を育てることを目的としているため、全員を試合に出場させることを心掛けて出場者を選ぶ。
だが、中学バスケは、「勝つ」ことにあくまで価値を置くのだ。
ヒリューは、真面目な部員だった、誰からも好かれていた、勝のことを誰よりも理解していた。
でも、そうであったとしても、残酷な実力主義の世界についていける選手ではなかったのだ。
加えて、ミニバス時代の長所だった身長は、一年生の時点で成長が止まり、周りの選手に追い抜かされて、とても長所と呼べるものでは無くなってしまった。
一方で、勝が率いるチームが全国まで行けるチームかと言われれば、そんなことも無かった。
実力主義とはいえ、全国まで視野に入れてバスケをしている人間はなかなかいない。
その中で、全国で優勝したいと宣言して練習に打ち込み続ける勝は、常にチームで浮いた存在だった。
そんな勝にチームとして協力してプレーしていくことは難しく、バランスの取れないワンマンチームとして戦っていくことになるのだが、そのような状態では到底勝ち進むことなどできなかった。
地区大会の二回戦を突破するのがやっとで、県大会に進んだことすら一度もない。
それでも、勝はあくまで全国優勝を掲げ続けていた。
そして、ついに、三年生最後の夏の大会が始まった。
観客も選手も、誰もが汗でべとべとになる、そんな暑さの中、地区大会3位決定戦は行われていた。
この3位決定戦に勝てば、県大会に駒を進めることができる。負ければ、ここで勝たち三年生は引退だ。
両チームは互いに、いつにない緊張感の中で試合を進めていた。それに加えて、地区大会会場は、いくら扇風機を回しても全く空気が循環しない劣悪な環境である。
蒸し風呂のような暑さと、緊張感とで選手は疲弊しきっていた。
パンパン、と手を叩いて勝がボールを呼び、コートの45度の位置でパスを受け取った。そして、すぐさまゴールへと突っ込んでいく。二人のディフェンスが、急いで前に飛び出して、ゴールへの道をふさごうと試みるが、遅かった。反応の遅れによってふさぎ切れなかった二人の間のわずかな隙間にボールを落として通り抜け、ゴール下までたどり着いた勝は、鮮やかにシュートを決めた。
ワッと、ベンチから歓声が上がる。しかし、そう浮かれてばかりもいられなかった。残り時間は、あと30秒。現在のスコアは、63対60。あと3点の差を、この短い時間で埋めなければならないのだ。
オフェンスが相手に切り替わったと同時に、相手チームのうち二人が一気にゴールに向けて走り出した。どうやら、暑さで弱った体に鞭うって、相手は速攻戦法を取ることに決めたらしい。
しまった、完全に虚を突かれた。まさか、そんな体力が相手に残っていたとは。今度は、こちらが急いでディフェンスに向かう番だった。
やや後方に控えていたチームメイトが、なんとかパスが渡るのを邪魔しようと近づいていく。やっとの思いで、敵の右でパスを防げる位置にまでたどり着いたそのとき、事件は起きた。
チームメイトの体勢が、がくんと崩れ、大きく転倒したのだ。そして、そのはずみに相手を強く突き飛ばす。
ピッ、と審判の笛が鳴り響いた。ファールだ。相手チームにフリースローが与えられる。
まずい。この時間で差をさらに離されては、もう勝てないかもしれない。そう考えながら、勝がフリースローのポジションに移動しようとしたとき、ピピッ、と再び笛が鳴った。
今度はなんだ、と様子を見てみると、先ほど転んだチームメイトが右足を抑えたまま立ち上がれずにいた。どうやら転倒で痛めてしまったらしい。交代が必要だ。
でも、この状況でメインのメンバーが退場するというのは、どうしたって痛手だった。
会場内にざわめきが広がっていく。それがまた、勝を、そしてチームの全員の心をより一層不安にした。こんなときこそ声を掛け合わなければならないのだろう。下を向いている場合ではないのだろう。
そんなことはわかっていても、心も体も、勝は限界だった。負ければもう終わり。二度と前世のリベンジは果たせない。
勝たなければ、と幾度となく思い続ける極限の緊張状態と同時に、それより大きな、勝てるかどうかという疑問が襲い掛かってくる。
その不安に耐え切れず、動いていないにも関わらず、勝の呼吸が乱れ始めた。コヒュー、コヒューと一呼吸ごとにおかしな音が鳴る。
やめろ、止まれ。ここで俺までダメになったら、間違いなく勝てない。考えるな。
しかし、そう焦れば焦るだけ、呼吸はさらに激しく乱れ、それが更なる不安を呼んでいく。
勝たなければ。勝てないかもしれない。勝つんだ。
勝てるのか。勝てないだろう。勝つにはどうする。どうやって勝つんだ。
どう奮い立たせても、不安が打ち勝っていく思考の中、やがて勝の思考は一色に染まった。
勝てない。勝てない。勝てない。勝てない。勝てない。
勝てない。勝てない。勝てない___________
「勝てるよ!!」
突然、大きな声が、一色に染め上げられた勝の思考の支配を打ち破った。見ると、両手を口に当てたヒリューがこちらに向かって叫んでいる。
「勝てる!勝てる!大丈夫だから。まだあるよ!!」
この場の空気を一気にぶち壊すような、楽しそうで極めて明るい声色でヒリューは叫んでいた。
しかし、ただ一人、勝だけはその声がほんの少し震えていることに気が付いていた。
ヒリューの叫びに応えるように、ベンチから、観客席から、次々と応援が聞こえてくる。
「がんばれ!」「負けるな!!」「信じてるぞ!!」
そのような、無数の言葉がシャワーのように、勝たちを包み込んだ。そして、それらをかき消すように、もう一度息を大きく吸い込んで、ヒリューは思い切り叫んだ。
「全国ゆうしょおおおお!!」
会場は皆、あっけにとられていた。地区大会の、しかも3位決定戦で、そんな大層なことをいう者があるだろうか。今度は、逆にベンチも観客席も、苦笑いを浮かべ、少し恥ずかしそうに手を叩いていた。
そんな中、勝とヒリューは当然のような顔をして、にやにやと笑っていた。
もう勝も、ヒリューも、勝てないなどとは微塵も思っていなかった。
そして、もう一人、ヒリューの叫びを当然のような顔をして聞いている人物がいた。
「ヒリュー。お前、交代で出ろ」
監督は、にやりと笑ってヒリューに向かって指示を出した。
ブザーが鳴り響いた。ヒリューがコートに入場し、相手側のフリースローから試合が再開する。
その場にいる誰もが、まずはそのフリースローの行方に注目している。会場中の視線が一点に集まるその重圧を打ち砕けるように、相手選手は、ダム、ダム、と二回。両手で強くドリブルをついた。そして、ゆっくりとボールを放つ。
スパッという小気味の良い音がした。入ってしまった。
これでスコアは四点差。試合時間は残り、24秒だ。
オフェンスに切り替わり、勝を起点にして、まずはボールを運ばなければいけない。しかし、それは相手もわかっている。ボールを受け取ろうとする勝にぴったりとディフェンスがついて、パスを妨害しにかかる。
勝は、自らの俊足でディフェンスを振り切ろうとするがなかなか上手くいかない。
じりじりと、時間が削られていく。そんな中、前に走り出そうとしていたヒリューがその状態に気づき、戻ってきた。そして、スクリーンをかけて、勝のディフェンスの進路を逆に妨害する。見事にデイフェンスはそれに引っ掛かり、勝へのパスが通った。
「ナイスだ!」
勝は、一言声をかけ、そのまま勢いよく前へとドリブルで駆け出した。
先ほどまでパスを入れさせないディフェンスに注力していたため、その勢いのまま勝は、スリーポイントラインまでたどり着いた。今、3ポイントシュートが入ってしまえば、逆転の可能性がある。ディフェンスは、打たせないように至近距離まで近づいた。
通常の2ポイントシュートなら、とらせてもいい。横から抜かれて通常シュートが入るのはいいから、3ポイントだけは許さない。
横への防御を捨て、両手を上げるディフェンスにより、勝は3ポイントシュートを打つための視界を塞がれた。
それを確認した勝は、ディフェンスが割り切って防御を捨てた、ディフェンスの右のスペースへと一歩踏み出した。しかし、そのままドリブルは仕掛けない。
そのスペースからさらに一歩、右後ろへと勝はバックステップを踏んだ。もう、目の前に邪魔者はいない。
視界の真ん中にしっかりとゴールを捉え、勝は渾身の3ポイントシュートを放った。大きく弧を描いて、ボールが飛んでいく。その滞空時間が、今の勝には無限のように感じられた。
ただ、その待ち時間は無駄にならなかった。
ボールはしっかりとゴールリングを捉えて落下し、ネットを揺らした。これで1点差だ。
相手のオフェンスが始まる。
残り時間、あと12秒。この中でもう一得点あげるには、パスカットを狙うしかない。勝たちは、全員それぞれ一人ずつにぴったりとついて、パスを妨害することにすべてをかけた。
それに負けじと、相手チームはバウンドパスを通す。
しかし、そのパスは相手の手から零れ落ちてしまった。勝たちの圧に負けたのか、汗で滑ったのかはわからない。
ただ、相手チームが慌ててボールを追いかけたのもむなしく、ボールは勝に拾い上げられた。
攻守交替。最後のチャンスがめぐってきた。
ボールを持った勝に、向かってディフェンスが、群れになって襲い掛かってくる。そんな中、勝がとった行動は、ヒリューへのパスだった。
ボールを手放し、自由になった勝は、ディフェンスを掻き分け、45度で再びボールをもらう。
そして、一気に一歩、二歩と大きく踏み出し、飛び跳ねてシュートを打とうとしたところで、前からやってきたディフェンスが同じく飛び跳ね、シュートをブロックしにかかる。
二度も同じミスはしないんだよ。
あの日、言った言葉を思い起こしながら、打とうとしたシュートを引っ込め、ダブルクラッチの体勢に入る。
一回転される腕。その一回転の刹那、勝の頭には、様々な回想が流れては過ぎていった。
「勝ってこい」と言い続けた父の顔、窓から身を投げた後の鈍い痛み、全国優勝を宣言した時のこと、積み重ねたダブルクラッチの練習。
ここで自分が打てば、それらもすべて報われる。そう思った瞬間、最後に勝の頭に浮かんだのは、
『僕のおかげで勝てた、って言われる試合をすること、かな?』
下を見てうつむいた、ヒリューの姿だった。
回転と回想が終わってすぐ、勝は45度を見た。
そこには、まっすぐに自分のほうを見つめ、シュートフォームを構えているヒリューの姿があった。
次の瞬間、ヒリューの手にはボールが携えられていた。ゴ
ールに向けて放つはずだったボールを、自分がヒリューに向かってパスしたのだと気づくのに、勝はしばらく時間がかかった。
ダブルクラッチが成功したなら、パスをして人にシュートを打たせる必要など、どこにもない。前をふさぐものが無い今、自分で打てば確実に得点できる。
確実に、勝てる。そのために練習してきたはずだ。
それでも。勝つか分からなくても。ヒリューにパスがしたかった。勝つのが嫌になったわけではない。見たい勝利が変わったのだ。だから、勝は心の底から望んだ。
見せてくれ、ヒリュー。
音が、消えた。
その静かな空間の中で、ピッとヒリューの細い腕が伸び、迷いなくボールが放たれた。
伸びた腕は、まるで長い白鳥の首のようで、ボールの軌道は、澄んだ青空に残ったロケットロードだった。
「入れ」と願うことすらやめて、勝はそのシュートに、ただ見惚れていた。
パシュッというボールがネットを通った音と、試合終了のブザーが鳴り響き、世界に音が戻ってくる。
割れんばかりの拍手と大歓声で、世界は一気に騒がしくなった。
コートの中心に両チームが並び、礼をする。
「ありがとうございました」
相手チーム、審判、観客席に続けて礼をし終わると、ヒリューはその場で動かなくなり、泣いていた。他に誰もいないかのように、一人で。
少しすると、ヒリューは勝のほうにヨロヨロと歩いてきた。勝の目の前まで来たところで立ち止まる。そして、思い切り勝の肩を叩いた。小気味の良い音が響く。
「あそこで打たずにパスするとか、馬鹿じゃないの?」
ヒリューは頬を膨らませて言った。
勝は、口を開こうとしたが、すぐには言葉が出てこなかった。目を真っ赤にしながらも、誇らしげに勝の前に立つヒリュー。それを見ると、今まで感じたこのない熱いものが勝の胸を満たした。それは、どうにも言葉にならないものだった。
だが、言いたい言葉はすでに決まっている。
「ああ、馬鹿だ。だから、お前のおかげで勝てたよ」
そう言ってヒリューの顔をまっすぐ見つめる。
ヒリューは、驚いたような、呆れたような、なんとも言えない顔をしていた。そして、その顔のまま一粒だけ涙を落した。
しかし、次の瞬間ヒリューは目をこすり、いたずらっぽい表情になった。そのまま、にやりと笑い口を開く。
「今後も僕は、活躍するんだ。それを言うにはまだ早いぜ?」
止まっていた二人の物語が、今、再び回りだした。
終
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