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 昔からこの家には影が漂っていた。物心がついて間もない僕が感じとれてしまうほど確かな、それでいて掴みどころのないひそやかな影。それはいつもお母さんとお父さんの意識の先にあった。ダイニングテーブルの空席、僕の後ろ、空欄の並んだ六月のカレンダー。ふたりはいつも僕には見えないなにかが見えているようだった。  あとから聞いた話だが、六月は兄の生まれるはずだった季節であり、兄の死んだ季節でもあった。これはほんのついでだが僕の誕生月でもあった。  小学一年生のころ、その影の重さに耐えかねた僕は不安にかられてお母さんに尋ねた。「そこになにかいるの?」と。お母さんは目玉がこぼれ落ちそうなほどに目を見開いていた。同時にみるみる冷めていく肌の色を今でもよく覚えている。震えた唇で語られた、僕だけが知らなかった兄という存在。いつの間にかあった影の正体は、兄という大きな穴だった。  おはようからおやすみまで、それからよく頑張ったね、お誕生日おめでとうにいたるまで、ふたりの言葉の向こうには兄がいたことを鮮明に思い知った。オバケでもいるんじゃないかと疑っていたころが本当に懐かしい。僕は知らないうちに生まれることのできなかった兄のぶんまで生きることになっていた。記憶というものは残酷で、忘れちゃいけないものほど消えていき、忘れたいものほどこびりつく。知らなかったころにはもう、戻れない。  無意識的に左手がシャーペンを持ったもう片方の二の腕をつかむ。ざらついた皮膚が自分のものとは思えないほどに冷たかった。無機質な英語と日本語の羅列にくらくらする。  兄が生きてさえいればすべては丸く収まっていたはずなのに。普通に生まれてくる。たったそれだけのことがどうしてできなかったんだ。どれだけけなしても罵ってもなにも言えない兄に怒りをぶつける。できる子になれない僕の弱さが生んだ歪みだとわかっているのに止められない。そんな醜い自分が心の底からいやだった。  なぎ払うように机の上を片付ける。タブレットの電源を入れイヤホンを耳に突っこんだ。音量を上げて誰も知らないようなバンドの曲を貪る。こうしている間だけは余計なことを考えずにすんだ。けれど、刺激的なビートに身をゆだねていたせいで温厚なお父さんが珍しく大声を上げたことにほんの少しも気づくことはなかった。
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