プロローグ

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プロローグ

 悲しい事があると、私は鏡の前に立つ。それはもう癖のようなもので、いつの間にか私の中に染み付いていた行為だった。欠けた鏡に映る大嫌いな自分の顔を見て、不安定な世界から、私は朧気(おぼろげ)になった私の輪郭(りんかく)を取り戻すのだ。私という輪郭(りんかく)を取り戻す儀式。私という存在を確認する儀式。  夏の終わりの空は既に暮れて、日没後の残光(ざんこう)が辛うじて薄暗い部屋を照らす。薄闇の中鏡に映る自分は、まるで亡霊のようだと思った。ぼんやりと白く浮かび上がった輪郭(りんかく)に影が落ちた自分の顔。眼鏡を外す。鏡の中の自分と目が合った瞬間、私は反射的に目を()らした。鏡の中から、恨めしそうにこちらを見つめる自分の瞳。自分の視線に痛みを覚える。自分の受けたショックの大きさを知った。痛い。痛い。知覚できる全てが私を傷付ける。皮膚に触れる白衣の感触も、遠くで聴こえる物音も、煩い蝉の鳴き声も、自分自身の思考も、何もかもを痛みとして認識する。ざっくりと、自分の内側を傷付けられた感覚。  上手くいっていた筈だった。少しずつ、回り始めた歯車は噛み合い、幸せな世界を形成していた筈だった。そしてそれは、これからもっと成長して、うつくしい物語を築く筈だった。それが、どうして。  私は信じてもいない神様に願う。どうか時間を巻き戻してください。私が間違えたところから、もう一度世界の選択をやり直させてください。不可逆な世界の流れを、もう一度初めから。  だけど、やっぱり神様なんていないから、私の願いが聞きいれられることはない。いたとしても、こんな何もかもから見放された研究と研究施設を、神様が顧みてくれることなんてないだろう。分かっている。本物が偽物に微笑むことはない。偽物が本物に成り代わることはない。私は鏡の前で(うずくま)る。刻々と部屋から光は失われ、世界は闇に沈んでいく。どうしようもない現実を前に、私には為す(すべ)もない。  私は胎児のように(うずくま)ったまま目を閉じて記憶を辿(たど)る。光の世界。光の時間。幸福だった夏の幻影を。  それは梅雨が明けたあの頃まで(さかのぼ)る。雨上がりの空の下、世界は確かに輝いていたのだ。
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