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1.THE MAGICIAN
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長く続いた梅雨が明けた。夏の色を帯びた日差しが、朝の食卓へと真っ直ぐに降り注ぐ。
テーブルの上には、プレートごとに盛り付けられた食事が並ぶ。スクランブルエッグやウインナー、サラダのレタスの鮮やかな緑。熟れたトマトの赤。酸味の効いたドレッシング。冷えた牛乳はこどもたちのプレートの横に。大規や日野尾の席からは、ホットコーヒーのほろ苦い香りが漂う。
いつもと同じ朝。まだ寝ぼけ眼のこどもたちを眺めながら、日野尾ものんびりとトーストをかじる。溶けだしたバターが甘い。
「ごちそうさまでした」
眠兎が手を合わせ、食事を終える。プレートにはまだ三分の一程の量が残っていた。
「あれ、眠兎、もういいの?」
「……まだ、ちょっと食欲無いです」
「そう?いいけど、途中でお腹空いたら言うんだよ?」
はい、と素直に眠兎は返事を返す。寝起きだからだろうか、心無しかあまり元気がないように見える。そのまま席を立とうとする彼を見つめ、日野尾は声を掛けた。
「ねえ、眠兎。君、ちょっと痩せた?」
「えっ……そうですか?」
「うーん、何となく、だけど」
白いシャツの七分袖から伸びる腕や、小柄な体躯が、僅かに細く、薄くなっている気がする。もっとよく観察しようと、日野尾は眼鏡の奥からじっと目を凝らす。
「気のせいじゃないですか」
席を立った眠兎は、日野尾の瞳から逃れるように、そのまま部屋の外へと姿を消した。その背を見送り、大規に話しかける。
「……痩せたよねぇ」
「そうですね、少し」
元々、肉付きの良いほうでは無かったが、よく言えば全体的に華奢になった。悪く言えば、やつれているように思える。
「せんせー、みんとのぶん食べてもいい?」
思考を遮るように、真白が声をあげる。
「いいけど。食べすぎてお腹壊さないようにね?」
「やったー!」
サラダを頬張りながら、真白は弾けるような笑顔を見せる。眠兎の残したプレートを自分の方へ引き寄せ、ウィンナーにフォークを刺している。既に自分のプレートからはほとんどの料理が消えていた。
「真白は食欲旺盛だねぇ」
「だって、おーきせんせーのごはん、のこすほーがもったいねーもん」
「そう言ってくれると、僕も作りがいがあるなぁ」
コーヒーを飲んでいた大規が照れくさそうに笑う。
和やかな食卓。日野尾は皆を見渡す。大規と真白のやり取りに、蒼一郎も笑いながら牛乳を飲んでいる。十歌だけが、周囲の空気を窺うように、無言で食事を口に運んでいる。疎ましく思う気持ちを押し殺し、日野尾はコーヒーに手を伸ばした。
*
食べたばかりの朝食のほとんどをいつものようにトイレで吐き出し、眠兎は口と手をゆすぐ。冷たい水道水が、吐いた後の熱を持った肌に心地よい。ついでに顔を洗い、はあ、と息をつき顔を上げる。
「だる……」
吐く前に外した黒縁の眼鏡をかけ直す。鏡に映る自分は、確かに少し、痩せた気がする。あまり顔色が良くない。吐くって体力使うもんな、と思う。
(短い間に、吐くことばっか上手くなってもな)
梅雨以降、可能な限り食事は吐いてばかりだった。何が混入しているのか分からない以上、こうすることが最も効果的な自己防衛に繋がると思ったからだ。毎日、食べて、吐いて。それの繰り返し。
つまらない。最近は自分を守ることばかりに頭を使っている気がする。そういう頭の使い方は本来性にあわない。退屈で、ストレスが募る。
鬱陶しいほど長かった雨がようやく上がったというのに、心は晴れるどころか、窮屈な籠の中に押し込められている気分だ。
しかしそれは、今までも同じだったのだ。自分に名前を与えられるより前、実験体としてこの世界に誕生してからずっと。自分が意識しているか、そうではなかったかの違いだけで。実際、僕達はこの〝はこにわ〟に閉じ込められている。そう眠兎は思う。だからこそ、意識してしまった今は、その窮屈さに耐えられない。
がり、と無意識に爪を噛んでいたことに気づき、眠兎は唇から指を離す。吐く時についた歯型が、人差し指と中指の第二関節をほのかに赤く染めていた。
(吐きダコ、作らないように気をつけないと)
指先の感覚を確かめながら、ふらついた足で部屋へと戻る。ドアを閉め、ベッドに仰向けに転がると目を閉じた。
遠くで蝉の鳴き声が聞こえる。
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