2人が本棚に入れています
本棚に追加
2
午前中、眠兎の部屋に来客があった。椅子に座り適当な本の文字をだらだらと目で追っていると、控えめなノックに次いで「開けてくれ」と硬質な声が響く。ドアを開けた先に立っていた十歌の手には、食パン二枚と水の乗ったトレーがあった。
「持っていけと言われた」
「……どーぞ」
十歌を室内へと通し、ドアを閉める。十歌はベッドにトレーを置くと、その横に座った。眠兎も椅子に座り直す。
「食べないよ、それ」
目線だけでトレーの中身を示す。
「薬とか入ってるんだろ。だから食べない」
警戒心を露わにする眠兎に対し、十歌は食パンの端をちぎって自分の口に放り込む。
「おいっ、……」
驚く眠兎をよそに、十歌は食パンを飲み込む。
「これには入っていない。だから安心していい」
「これに〝は〟?」
「普段の食事については保証しない。食パンに何か塗るなら別だが、そのままなら薬も入れようがない。本当は飲み物も……、野菜ジュースが入っていたのを捨てて、コップの中を綺麗に洗ってから水道水に入れ替えた。味気ないと思うが、済まない」
「………………」
「食べないなら、俺が」
食べる、と言いかけた十歌の横から、食パンを手に取って口へと運ぶ。もぐもぐと咀嚼して飲み込むと、胃のあたりが動く感覚の後、そこを中心に身体が温かくなる気がした。久し振りの吐く必要のない食事に、身体が栄養を欲していたのが分かる。
「本当、君ってお節介。そういう奴が流れ弾で死ぬんだぞ」
「それは……怒ってるのか?褒められてるのか……?」
「うるさい」
怒りながらも残りのパンを口へと運ぶ。十歌が僅かに表情を緩めるのが分かった。
「食事、今までどうしてたんだ?」
「ここ暫くは吐いてた。先生達の前で食べないわけにもいかないし」
「吐いてたって……いつから」
「蒼一郎と記憶が噛み合わないのに気付いてからだから……向こうの世界で言うところの、梅雨?の初めくらいから」
「お前、ひと月……いや、ふた月近くじゃないか」
驚く十歌に、まあね、と返す。
「向こうの世界で食事してる記憶はあるし、懲罰室送りで多少は慣れてるから。役に立つとは思わなかったけど」
最後の一口を食べ終え、それより、と話を促す。
「今後の為に、お互い情報交換といこうじゃないか」
*
「君は、〝こども〟への昇格条件って何だか分かる?」
眠兎はそう切り出す。十歌が「分からない」と素直に答えると、小さく頷く。
「これは僕の推測だけど、一番の条件は〝自己を有しているかどうか〟だと思ってる。自分とそれ以外の区別がつくかどうか、固有の人格とか性格、特性みたいなのを持ってるかどうか……他にも色々あるんだろうけど、これは少なくとも、今いる〝こども〟全員に当てはまるだろ」
「確かに。……だからか。この世界の最初の記憶で、労力返せとか処分がどうのとか言われて蹴られたのは」
「あー。蹴られたんだ。先生達、容赦ないからなー」
懲罰室での地獄の鬼のような二人を思い浮かべる。情け容赦なく十歌を蹴りあげる姿が容易に想像できた。よくもまあ、それで〝こども〟になれたものだ。
「まあ、それで先生達お望みの〝こども〟に昇格する訳だよ。その時、名前と何かひとつ、日野尾先生から贈られるんだ。僕ならこの眼鏡。蒼一郎なら、いつも髪の端に青いピンしてるだろ?あれが贈られたもの」
具体例を出しながら、眠兎はふと、十歌に贈られたものが何なのか気になった。いつも何かを持ち歩いている訳でも、身につけている訳でもない。
「十歌は?君だって名前以外に何か貰っているだろ?」
十歌は首を振る。
「俺は、何も貰っていない」
「マジかよ」
十歌が頷く。驚いた。本当に何も貰わなかったらしい。
「君、何で〝こども〟になれたんだ……?」
「さあ。蹴られていたら大規研究員が観察したいと言い出して、所長から許可を貰っていた。所長はさっさとぶつ切りにしたかったらしいが、どうやら俺の悪運が勝ったらしい」
肩を竦める十歌。悪運、とは言い得て妙だった。彼にとって〝こども〟として迎え入れられたのは、幸運なのか不運なのか分からない。結果的に、少なくとも眠兎にとっては幸運だったが。
「少なくとも、君にも素養はあると思われたんだろうな。ただ、君は色々とイレギュラーだ。〝こども〟への昇格の仕方もそう。一番僕達と違うのは、君には〝実験体〟としての意識がまるでない」
そうだろ?と問いかける。ややあって、十歌は口を開いた。
「正直、突然知らない世界に放り込まれた気分だ。この研究施設といい、ろくでもない大人達といい、戸惑いの方が大きい」
「それ。その言い方」
十歌の顔の辺りを指さす。思わず彼は背筋を伸ばした。
「根本的に違うんだよ。僕達は日野尾先生や大規先生を、自分と切り離して考える事が難しい。どうしても〝自分を創った人〟って感覚が抜けないんだ。逆に十歌はそう考える方が違和感あるだろ?」
「眠兎の言う感覚は、親と子に近い感覚、という事か?」
「少し違うかな。例えるなら――そう。神と人間の感覚に近い。だから僕達は、先生達を慕うし、畏怖に近い感情を抱く事もある」
「…………お前も?」
「多少はね」
不本意ながら同意した。意外なものを見る目を向けた十歌にやめろ、と手を振る。
「とにかく。それが僕達〝こども〟にとってのどうしようもない現実。どういう自己を有しているかで、違う役割も期待されてるんだろう。何を期待してるかまでは知らないけどね」
眠兎はそこで話題を区切り、もう一つの話へと移る。
「それで……やっぱり、記憶っていじられてるんだ」
努めて平静に言葉にしたはずが、語尾が僅かに震える。十歌は眠兎をじっと見て、それから少し俯いて頷いた。
「だよね」
胸の中にじわじわと込み上げてくるショック。改めて知った事実に、怒りとも哀しみともつかない不快感を覚える。
「小さなものなら、比較的簡単に塗り替えるのが可能だと言っていた。蒼一郎の記憶は多少いじっている、と」
「あいつ、最近大人しいもんなぁ……」
呟く。怪訝な顔の十歌に気付き、ああ、と説明する。
「基本的な性格は変わってないよ。でも、ここに来たばかりの頃は時々暴れてたんだ。先生達を振り切って脱走しようとした事もあったんだよ」
〝こども〟としてここに来たばかりの頃の蒼一郎を思い出す。普段は大人しい優等生が、別人のように暴れる姿。点滴が外れ、腕から出血するのも構わずに外へ出ようともがく姿。馬鹿だなあ、と冷めた目で見ていた自分。
「俺も、一度だけ見た事がある」
「ああ、なんだ。知ってたのか」
意外だった。暴れる蒼一郎の姿は、眠兎の記憶の片隅にある程度の事だったからだ。
「初めて会った日だ。俺を連れて、何処かへ逃げようとした。結局、大規研究員に捕まって、それきりだったが……蒼一郎の記憶から本棚が消えたのは、恐らくその時がきっかけだ」
「……まだ暫くは食べて吐くが安全だなぁ……」
はー……と深い溜息をつく。パンを消化中であろう胃のあたりが、文句を言うように動いた。
「所長は、〝物語の調整〟だと言っていた」
「物語、ね」
「あとは、君も違う世界の夢を見るんだろう?と。君も、という事は、他にも夢を見る奴がいるんだと考えた。お前が賭けてくれなかったら、今も俺は一人で悩んでいたと思う」
十歌の言葉に、眠兎はにやりと笑う。
「ただでさえ不利なんだ。これだと思ったチャンスは掴むさ。実際、リターンはあったしね」
それから、十歌の話した内容について思考を巡らせる。物語の調整。思い当たる節はあった。
「……日野尾先生は、僕達が夢の話をすることを嫌う。十歌からすれば現実の世界。僕からすればもうひとつの世界。真白や蒼一郎も同じ世界の記憶を持っているかは分からない。特に興味もなかったし。でも多分、先生は〝こども〟から夢の世界そのものを消したいと思ってる」
唇のあたりを爪で引っ掻きながら、眠兎は更に考える。夢の記憶を消したいならば、初めに改ざんされるべきは自分ではないのか。何故自分よりも蒼一郎が優先されたのか。蒼一郎が暴れていたのも夢に起因することだったのか。
「多分、先生は、此処が僕達にとって唯一の世界であって欲しいんだ」
ぽつりと自分の口から零れた言葉が、確かかどうかは分からない。続く言葉が見つからず、眠兎は口を噤む。十歌も返す言葉が見つからなかったのか、互いの間に沈黙が流れる。
「……俺は、この世界を変えたいと思っている。向こうの世界でお前にも話したが、お前や他の皆が利用されるのを黙って見ていたくはない。せめて、皆の手助けになる事がしたい」
硬質な声。真っ直ぐで曇りのない、決意と覚悟を宿した声。強い意志を宿した声。
「眠兎。お前はどうしたい?」
十歌の声が、眠兎を射抜く。
「僕は僕自身を失いたくない」
眠兎はじっと十歌を見据える。
「〝こども〟なんて呼ぶけどさ、結局は実験動物がペットになったようなものなんだよ。それでも、僕の意思は僕のものだ。僕が何をするかも、どっちの世界を楽しむかも、どんな記憶を大事にするかも僕が決める。僕がひとつの物語だとするなら――そこから全てを調整されたら、僕である意味がない」
ぐっと拳を握る。掌が熱い。自分が此処に確かにいることの証明。
「僕は君を利用するぞ」
「すればいい。俺も自分の我儘みたいなものなんだ。それが互いの目的に適うなら、協力しあった方がいいに決まってる」
互いに、拳をこつんと合わせる。
「まずは日記。できる限りメモは取るようにしよう。もし何か忘れてしまっても思い出せるように」
「そうだな。あとは――単独行動もできる限り避けよう。突発的に危害を加えられる事を減らせる」
「……善処はする」
苦々しい思いで答える。口角を上げた十歌に、眠兎もまた不敵な笑みを浮かべる。
「同盟、成立だ」
最初のコメントを投稿しよう!