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……ばたばたと、廊下を走る音が近付いてくる。その音に気付いた眠兎は読みかけの本をぱたんと閉じた。こんな風に廊下を走るのは〝はこにわ〟で一人しかいない。足音は眠兎の部屋の前で止んだかと思うと、次の瞬間には大きな音を立ててドアが開いた。
「みんとーーー!!」
「うるさい」
真白の声が鼓膜を震わせる。眠兎はぴしゃりと注意するが、彼女は気にする様子もない。開け放たれたドアはその勢いで壁にぶつかり、真白の後方できいきいと鳴きながら半分閉まりかけている。
「何だよいきなり。何しに来たんだよ」
「そーいちろうてんてき外れるかも!」
真白はそう言うなり、椅子に座る眠兎に飛び付いてくる。とっさに机に片手をつき、何とかバランスをとって身体を支える。危うく椅子ごと倒れるところだった。空調が効いているとはいえ、真白の長い髪が暑苦しい。ぐしゃぐしゃになった真白の頭をもう片手で抑える。こいつは犬か何かなのか。
「待て待て待て。順を追って説明して」
「もーすぐてんてき外れるかも」
「全然順を追ってない」
何とか真白を引き剥がす。ふざけた調子でよろめきながら、真白はベッドへと倒れ込んだ。衝撃でベッド周りの本棚から本が数冊転げ落ちる。真白はそれを器用に避けて笑っていた。癖のある長い髪がふわふわと揺れて広がる。
「んー、なんか、おーきせんせーが」
「うん」
「さいきんそーいちろうちょーしいいから」
「うん」
「このままなら夏の間にてんてき外してせーかつできるかもって」
「……へー」
出がらしのお茶より薄い反応を返す。真白は不満気だ。ベッドの上で泳ぐように手足をばたばたさせている。転げ落ちていた本が一冊、床へと落ちた。
「なんだよー。うれしくないのかよー」
「特に」
頬を膨らませ、えー! と真白が抗議の声を上げる。落ちている本を拾い上げ、本棚へと戻しながら、眠兎は密かに頭を働かせる。
蒼一郎の点滴が不要になる。それは本人や真白にとっては「喜ばしい事」だろう。しかし、自分にとっては素直に喜べる話ではなかった。蒼一郎が「日野尾や大規にとって都合のいい状態」になる事を意味するからだ。十歌が言っていた〝物語の調整〟が完了した状態。そのモデルケースとしての蒼一郎は、果たして自分の記憶する蒼一郎と同じままなのだろうか。
(……まずいな)
「蒼一郎の薬って完全に無くなるの?」
「ううん。注射や薬をのんだりに変わるかもっていってたぜ」
再び、へーと返す。完全に無くなる訳ではないと分かり、少しだけほっとする。とはいえ、不穏なニュースであることに変わりはなかった。よりにもよって同盟成立の当日に。
「みんと、やっぱりしんぱいしてくれてるのか?」
「……別に」
自分の心配はしているけれどと心の中で付け足すが、こちらを見る真白は嬉しそうに頬を緩ませている。どうやら心配しているものと勝手に受け取ったらしい。
「そーいちろうにもさ、今がカンジンなんだぞって言ったんだ。あいつ、ときどきぼーっとしてるから」
「暑さにやられてんじゃないの」
「うーん。そーなのかも。じゃー、なおさらカンジンだな!」
真白は飛び起き、そのまま眠兎の部屋を後にする。またいくつかの本が棚から落ち、勢いよく閉まったドアはその反動で僅かに口を開けた。台風のようにやって来ては台風のように去っていく。少しは大人しくする事も覚えて欲しい。無理か。
「……壊れたら、日野尾先生に言いつけよう」
ドアをきちんと閉め直し、眠兎は溜息をつく。
蒼一郎の変化には気を付けていた方が良さそうだ。蒼一郎の今までとこれから。それを知っておく事は、今後の自分の為にもなる。
眠兎は椅子に座り、引き出しから一冊のノートを取り出した。普段はメモ代わりに使うそれにボールペンを走らせる。自分の中の蒼一郎の記憶。性格や好き嫌い、出会ってから今までに起こった事。蒼一郎が失った本棚の記憶。書こうとする度、いかに自分が周囲に関心を抱かなかったかに気付く。他者の記録をする筈が、浮き彫りになるのはむしろ自分自身の事だった。
*
十歌が蒼一郎の口から点滴の件について聞いたのは消灯前の事だ。部屋の両端にあるお互いのベッドに座り、向かい合う。
「そうか……良かったな」
「うん」
点滴を刺した腕を撫でながら、蒼一郎は頷く。
「色々心配かけてごめんね」
「いや、謝るような事じゃない。俺の方こそお前に色々教えて貰いながら生活してるんだから」
互いに謝り合う形になってしまった。すまない、と言いかけて口元を抑える。反対側のベッドで蒼一郎がくすくすと笑った。
「点滴が外れたら、今まで出来なかったことも出来るようになるかな?」
「なるさ。蒼一郎には、何かやりたい事があるのか?」
「うーん。そうだなぁ……」
蒼一郎は点滴棒の先を見上げる。交換されたばかりの点滴パックは奇妙な色の液体で満ちている。
「ずっと、この生活が僕にとっての〝普通〟だったから……正直、あんまりピンと来ないんだ」
十歌は蒼一郎の顔を見た。蛍光灯の光が点滴パックの色を透かし、蒼一郎の顔を薄く染める。不安と困惑。その両方を宿した表情。蒼一郎自身もどう受け止めればいいのか分からないようだった。
「点滴が無かったら、あれがしたい、これがしたいって色々思ってたはずなのに、いざ無くなるって思うと、不安な感じもする……」
「……そうか」
その気持ちは分からなくもなかった。当たり前だったものが生活の中から消える。消えるものがどんなものであっても、無くなると知ると不安になる。良くも悪くもそれらは自分を構成するものの一部だからだ。人は変化に恐れを抱く。その事を十歌は自身の経験から知っていた。
幼少期、母親からの虐待の末に衰弱死寸前でアパートから保護された後の事だ。自分には言い知れぬ不安と恐怖が常に付き纏っていたのを思い出す。もう自分を虐待した母親はいない。アパートに戻ることもない。そう言い聞かされても「母親のいない世界」に慣れるまで長い時間がかかった。今まで生きてきた場所とは全く違うルールで動く世界は十歌にとって不条理で、上手く適応するのは難しかった。変化した世界はあまりに優しく、それがかえって十歌には恐ろしかったのだ。
だからこそ、あえて深刻になりすぎないよう、軽い口調で返す。
「まあ、まず真っ先に真白が外に連れ出すだろうな」
「……そうかも」
「それから、点滴の減り具合を気にしなくても良くなる。大規先生が交換を忘れていないか、時間を気にしなくても良くなるぞ」
ややおどけた口調で言うと、蒼一郎の顔にも笑みが戻った。
「あはは。……でも、そうだね。何だか不安が吹き飛びそう」
「その方がいい。あまり不安に気を取られると、点滴も外れないままだ」
「ありがとう、十歌くん」
自分が来る以前、この〝はこにわ〟で蒼一郎がどう生活していたかは想像するしかない。他のこどもと違い、常に点滴と一緒の生活。そこには想像の及ばないような苦労もあっただろう。もどかしいことや、悔しいことも。それでも、十歌の知るこの世界の蒼一郎は、いつも静かに穏やかに微笑んでいた。暴れた姿を見たのは初めて会った時だけだ。
「……点滴が外れたら……少しは先生達の役にも立てるようになるかな……」
呟く声音はどこかぼんやりとしている。
「蒼一郎?」
「えっ?……あ、うん。ちょっとぼーっとしてたみたい」
誤魔化すように笑う様子に、微妙な違和感を感じる。何がどうとは言語化しにくい僅かな差異。意識と身体の反応のずれ。ただぼんやりとしていたとも違う何か。
(……何だ……?)
「……あまり思い詰めるなよ?少しずつ、な?」
うん、と頷き、蒼一郎はベッドへと入っていく。
「消すぞ」
「うん。おやすみ、十歌くん」
「お休み」
ドア近くのスイッチを切ると、ぱちん、と電気が消えた。十歌も自分のベッドに入る。
暗闇の中、脳裏に昼間聞いた眠兎の言葉がよぎった。
――蒼一郎も、ここに来たばかりの頃は時々暴れていた、と。
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