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2.TEMPERANCE
1
梅雨が明けてまだ間もないというのに、空からは夏の光が降り注ぐ。カーテンを開けた途端に溢れる夏の眩しい日差しに、日野尾は目をしかめる。七月の終わり、深みを増した空の蒼色。窓を開ければ草木の香りと共に清々しい朝の空気が室内へと流れ込む。鈍色だった空は見る影もない。
棚の中にあるいくつかの紅茶から、今日は何にしようと考える。
「ま、たまには定番でいっか」
アールグレイの缶を手に取り、茶葉の量を測る。温めておいたティーポットの中に入れ、熱湯を注ぎ、砂時計をひっくり返す。時間を見ながら別の容器に氷を準備し、紅茶を注ぐ。何度かかき混ぜれば、濁りのない綺麗なアイスティーの完成だ。
グラスを準備していると、部屋の扉をノックする音が聞こえる。
「どーぞー」
失礼します、という涼やかな声と共に、大規が部屋に入ってくる。片手には黒のファイル。夏だというのに腕まくりもせずきっちりと着た長袖の白衣。流石に中に着ているのは黒のハイネックではなく白のノーカラーの半袖シャツだが、口元を覆う白いマスクに四季の移ろいは感じない。白と黒で構成された外見。暑くないのかなぁと思うが、本人は声同様涼しげな顔をしている。こちらは羽織った白衣を腕まくりしても暑いというのに。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。じゃ、始めようか」
グラスと紅茶の入った容器をテーブルに運び、ソファーに座る。お互いにファイルを開き、資料を元に行う朝の打ち合わせ。季節が移ろっても変わらない時間。
*
「全員?」
「ええ、真白ちゃんがそうしたいと」
「……えー……」
大規からの報告に思わず声が漏れた。日野尾は腕組みをして考える。
「真白とだけ、のつもりだったんだけどなぁ……全員……うーん……」
想定していなかったわけではない。真白とカイの接触は他のこどもたちも知っている。ならば、「会ってみたい」という声が上がるのはごく自然な事である。自分が蒼一郎の立場でも、恐らく同じように思うだろう。
「珍しく蒼一郎くんからのお願いでもありますし、叶えてあげたい気持ちはあります」
「そうだねぇ……。あの子、周りの気持ちを汲みすぎて自己主張しないところがあるからなぁ」
いつも仲裁役やクッション役に周りがちな蒼一郎からの希望とあらば、無下にもできない。
手元のボールペンをカチカチとノックしつつ、最近のカイや蒼一郎の資料を見比べる。
「二人共、調子としては安定してるんだよねぇ」
「ええ。季節の変わり目ですから、もう少し様子は見ておきたいと思いますが、かなり良好に推移しています。蒼一郎くんの点滴も、この調子ならば早めの調整が出来そうです」
「んー……どうしよっかなぁ……」
それぞれの資料を読み直す。全体的に、どのこどもも安定した日々が続いていた。情緒的にも身体的にも落ち着いている。夢に関する報告もない。日野尾はアイスティーを一口飲んで、小さく息をついた。
「じゃあこうしよう。蒼一郎の点滴が無事に外れた後、問題が無いようなら。ただし、初回は私と大規くんが同席する。トラブルがあっても困るからね」
「……良いのですか?」
「君が持ってきた話でしょうが」
半眼で睨みつつ苦笑する。彼は時々、少年のような眼をする事がある。普段は全く隙のない男のくせに、不意にこうして隙を見せてくるのだ。十歌を生かした時もそうだった。もしも確信犯的にやっているのなら末恐ろしい。
「夢の件とか体調とか色々あるから別々に生活させてはいるけど、皆が仲良くなることには賛成だよ?それはきっと、優しくて幸せな物語のきっかけになるからねぇ」
日野尾はソファーに背を預け、頬杖をつく。
「ただ、眠兎や十歌をカイに会わせるのは、ちょっと抵抗あるかなぁ。最近は眠兎も大人しいけど……」
躊躇いの色が宿った瞳を、眠兎の資料へと向ける。
「……ねえ大規くん。眠兎、やっぱり痩せたよねぇ」
「ええ。本人は否定していますが……痩せましたね」
シャツの袖から伸びる細い腕。膝丈のズボンからのぞく細い脚。毎日見ていると気付きにくい変化だが、数値は嘘をつかない。梅雨頃から少しずつ、体重は減少傾向にある。
「どうしてだろう。食事の様子に問題は無さそうなのに。ストレス? って事は無いか。ストレスで体重減少する前に、あの子なら他害行為で発散するだろうし」
最近の眠兎の様子を思い浮かべる。他害行為は減った。特に梅雨の間は、大人しすぎるほど問題行動も見られなかった。懲罰室での一件以降、僅かながらも協調性が生まれつつあるようにも見える。だが、それで懲りるような〝物語〟ではない。こちらの様子を窺うにしても期間が長すぎる。減っていく体重。一体、何故。
一瞬、失った〝こども〟の記憶が頭をよぎった。痩せこけて眠ったまま目を覚まさない眠兎を想像し、すぐに打ち消す。
大丈夫。だってあの子は私を選んでいるもの。
「心配だなぁ。ご飯の量増やしてあげようかなぁ……」
冗談半分に呟く。大規がくすりと笑った。
「承りました。配膳には気を付けますね」
大規が自分の資料に小さく何かを書き込んでいる。その様子を目で追い、日野尾はうっすらと微笑む。
「やっぱり投与量、少し増やして正解だったねぇ。これからも、気を付けていかないといけないねぇ」
「承知していますよ」
顔を上げた彼の瞳にもまた、研究者としての冷たい狂気が宿っているように思えた。底の知れない、真夜中の暗闇を切り取ったような瞳。互いの声に含まれる、管理者としての傲慢さ。
「私からカイに話してみるよ。カイの反応次第では、全員と会わせるのは難しいから、今はまだ他のこどもに軽率な事は言わないようにね」
「ええ」
ファイルを閉じる。お互い飲みかけのアイスティーに手をつけていると、ふと大規が口を開いた。
「カイくんは、共同生活させないのですか?」
「え、」
「もし、皆が仲良くなって問題がないようなら、共同生活を送らせても支障はないように思ったので」
「……えっと……そうだなぁ、それは……」
大規の意見はもっともだと思った。他のこどもと同じ生活。同じ席で食事をし、互いの部屋を行き来する生活。きっとカイは喜ぶだろう。交流の中で深く育まれる友情や内面の変化もある。この〝はこにわ〟がより良くなる為に、それはきっと大切なことに違いない。
理性ではそれが正しいと感じる。しかし何故か、心に強い抵抗を感じた。どうしても嫌だと心が否定する。理由は分からなかった。
「……いえ、差し出がましい事を言いました。申し訳ありません」
口ごもる日野尾に抵抗や困惑の色を見て取ったのか、彼は静かに立ちあがり、頭を下げる。マスクを口元へと戻し、ファイルを片手に持つと、「失礼します」と一礼して部屋を出ていった。
「……違う……あの子は……特別だから……」
ひとりきりの室内で、誰にも届かない言い訳を口にする。そう、あの子は特別。だから他の子と共同生活はさせたくないの。その言葉にいくつもの反証が生まれる。特別? どのこどもだって特別な物語の筈なのに。カイだけに〝特別〟を当てはめるのは間違っている。理想的な世界を生み出すのに反する感情。論理と感情の矛盾。日野尾は自身の内面を探る。なぜ嫌だと感じるのか。本当の不安は他にあるのではないか。嘘だ。不安なんてない。不安な要素なんてひとつもない。不安に、気付きたくない。頭の中に湧き上がる言葉を遮るように、日野尾は立ち上がり窓を閉める。
窓に背を向けた彼女を焦がすように、夏の日差しはじりじりと熱を帯びていく。
*
他の〝こどもたち〟に会えるかもしれない。
「カイさえ良ければ、だけど」
どうする? と日野尾に問われ、カイは期待と不安が入り混じった表情を浮かべる。
雨続きの日々。その間ずっと真白や他のこどもたちに会いたいと思っていた。それが本当に叶うなんて。
「で、でも……本当にいいの?先生……」
「うん。今すぐとはいかないけど、近いうちに」
恐る恐る尋ねる。思いがけないプレゼントを目の前に差し出された気分だった。突然の嬉しいニュース。素直に受け取ってもいいのか戸惑ってしまう。こんなに嬉しい言葉に甘えてもいいのだろうか。それでも、勇気を振り絞って本心を口にする。
「僕、……会ってみたい」
「おっけー」
日野尾はにっと笑うとカイの頭を撫でた。それから頬を優しく包み、ぷに、と引っ張る。
「それにしても、どーして真白と会ってるって教えてくれなかったのさぁ。先生、淋しかったんだぞぉ」
「う……」
拗ねてみせる日野尾に、カイは思わず視線を落とす。それから日野尾を窺うようにそっと彼女を見上げた。ちくり、と罪悪感で胸が痛む。
「……秘密の、友達だから……。約束は守らなきゃって思ったから……」
カイの言葉に、日野尾が表情を緩める。
「約束は守らなきゃいけないって言葉、ちゃんと覚えててくれたんだ?」
こくん、と頷くと、日野尾は嬉しそうに微笑んでカイを抱きとめた。ふわりとした香水の香りが鼻腔をくすぐる。紅茶と柔らかな薔薇の香り。
「皆に会うの、不安?」
「少しだけ」
……本当はとても不安だった。
元々、誰かと話すのは苦手だった。日野尾や大規と話せるのは、よく見知った相手だからだ。それが初対面の相手となるととても勇気がいる。真白と打ち解けるのが早かったのは、彼女の明るさや気さくさのおかげだ。それでも初めてあった時は驚いて泣いてしまいそうになった。他の子とはどうだろう。上手く話せるだろうか。変な事を言って嫌われたりしないだろうか。
「先生、僕、皆と仲良くなれるかな……?」
「大丈夫だよ。初めましての時は私や大規先生も一緒だから。きっとすぐ仲良くなれるよ」
「うん……うん。頑張る」
自分に言い聞かせるように言葉にする。余程不安げな顔をしていたのか、日野尾はカイの背を優しく撫でた。
「頑張らなくて大丈夫。カイはそのまんまが一番いいよ」
その言葉だけで泣きそうになった。じわ、と込み上げた涙をこらえ、日野尾に微笑みを返す。日野尾の言葉はいつも優しい。大切にして貰えているのが伝わってくる。
「さて、皆に会うためにも、カイは身体に気を付けて過ごすように。私は仕事に戻るけど、何かあったら呼ぶんだよ」
ぽんぽん、と背を叩いた後、日野尾が離れる。ドアノブに手をかけた彼女に、カイは声をかけた。
「先生」
「……何だい?」
「あ……」
一瞬、頭に靄がかかったように思った。何かを言おうとした筈が、何を言おうとしたのか思い出せない。誰かの様子を聞こうと思ったのだ。いつも日野尾に聞いている誰かの様子。そう、髪の長い、親しい女の子の様子。
「えっと……真白は、元気?」
「うん。すっごく元気だよ。カイは元気? って毎日聞いてくる」
カイの顔を見て、嬉しそうに日野尾は答えた。
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