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「……真白も覚えてるとは思わなかった」
自室のドアを閉め、眠兎は息をつく。
「カイの件といい、本当に全員向こうの世界の記憶、あるのか……?」
「可能性は充分ありそうだな」
十歌も頷く。
「でも、何で夢の話バラしたんだよ。日野尾先生の耳に入ったら、僕等のリスク高いぞ」
椅子に腰掛け、じろ、と十歌を睨む。
「バレなきゃいい、とお前も言ったじゃないか」
ベッドに腰掛けた十歌が、あまり表情のない顔をこちらへ向ける。
「言ったけどさぁ……」
度胸が据わっているというか何というか。こいつ、本当に自分の身を顧みないなと眠兎は思う。表情が分かりにくい分、危なっかしい。危険な橋も平気で渡る。はあ、と溜息をつくと、十歌は少し深刻な顔をした。
「最近、蒼一郎の様子が、少しおかしいと思うんだ」
「……蒼一郎が?」
「時々、どうも上の空というか、ぼんやりとしているのが気がかりでな。一応お前にも伝えておこうと思って」
「……そういえば、真白もそんな事言ってたな」
点滴が外れる、と部屋に飛び込んできた真白の言葉を思い出す。
『あいつ、時々ぼーっとしてるから』
あの時は暑さのせいだろうと返したが、心に引っかかっていたことではあった。薬の影響による変化。その一端なのかもしれない。
「あいつ、元々感情激しいタイプじゃないし、真白の気の所為かと思ってたけど……」
眠兎は引き出しを開け、ノートを取り出す。最近の蒼一郎はどうだっただろう。暴れることが減った。本棚の記憶が消えた。点滴が外れるかもしれない状態になった。記憶の改ざんと、夢の記憶の有無。ぼんやりとすることが増えた蒼一郎の様子。
「点滴が外れるのは、夢の記憶が消えた事だけが理由じゃない……?」
暴れることが無くなったのは、向こうの世界の記憶が消えたからだと思っていた。こちらの世界の記憶のみになったから、記憶の混乱が無くなり、大人しくなったのだと。しかし、本当にそれだけだろうか。向こうの世界の記憶が消えることで生まれる変化。
十歌が眉を寄せる。感情の乗らない顔を強ばらせ、重い口を開く。
「〝物語の調整〟は、記憶だけじゃない。もっと深い部分で起こっているのかもしれない」
ぞわっと全身に鳥肌が立つ。穏やかな蒼一郎の微笑みが急に恐ろしいものに思えた。
「本当に、自分自身が塗り替えられてるのかよ……!」
傲慢に笑う日野尾と、冷酷な瞳の大規が頭に浮かぶ。彼等にとって「都合のいい状態」に近付いている蒼一郎。一見変化の見えない蒼一郎の内面は、今どうなっているのだろう。それは自分の記憶する蒼一郎と、本当に同じなのだろうか。
「真白にも向こうの世界の記憶があるのなら、蒼一郎にも残っているかと期待した。実際は残っていなかった訳だが……発表会が何かのきっかけになればいいと思っている」
「……今の蒼一郎を知る手がかりになるかも知れないしね」
手に持っていたノートを机へと置く。何もかもが手探りの状態。暗闇を光も無しに進むようでもどかしい。それでも進むうちに見えてくるものもある。今はそれだけでも、何も見えないままよりはましだった。
「それと、カイの話だが。俺も、〝姉さん達〟は向こうの世界の記憶だと思う。それがどうしてこちらの世界の記憶と混ざりあったのかは分からないが……」
「混ざりあっていたからこそ、僕等とは別に生活させてるのかも。……僕等がカイと会えた時点で、カイの中に〝姉さん達〟の記憶が残ってるかは疑問だけどね」
眠兎はそう言って、向こうの世界の記憶を辿る。ツンとした冷たい雰囲気の少年と、彼の双子の姉達。向こうの世界のカイも全体的に柔らかな色素ではあるが、〝はこにわ〟のカイ程ではない。何度か見かけたこの世界のカイは、薄氷を連想させるような薄く儚い印象を纏っていた。銀の髪にアイスブルーの瞳。互いの世界の外見としては、カイが一番違っている。
「今日の事も、ノートに記録しておこう。何時でも読み返せるように」
「ああ。俺もそろそろ部屋に戻る」
互いに頷いて、十歌が部屋を出ていく。丁寧にドアが閉まった後、眠兎はずるずると椅子からずり落ちる。
(本当、性にあわない事してるよなぁ……)
面倒事とは無縁の場所にいたかった。しかし、自分も当事者なのだからそうもいかない。眠兎はノートを開き、ペン立てからボールペンを取り出す。今日あった事、カイの事、〝発表会〟の事――それらをノートの線を無視して書きとめ、手を止める。
十歌の存在。蒼一郎の点滴。カイとの対面。立て続けに起ころうとする〝はこにわ〟の変化。これらは自分に何をもたらすのだろう。自分にどんな未来が待ち受けているのだろう。今までこんな事は起こり得なかった。自分が〝こども〟になってから、長い時間、ずっと。
「…………あれ……?」
そこまで考え、眠兎は気付く。
それなりに長い時間、自分は此処で過ごしている筈だった。少なくとも自分の後に三人〝こども〟が増える程度には。
しかし、思い出せない。一体、その間に季節は何度巡っただろう。一回? 二回? 自分は何度此処で夏を過ごした? いくら部屋にカレンダーが無くとも、その程度は思い出せそうなものだった。しかし実際は、いくら思い出そうとしても頭に靄がかかったように思い出す事が出来ない。その事実に愕然とする。
眠兎は「何度目の夏?」とノートに書き足す。胃のあたりが、じわり、と不安に蝕まれるように痛んだ。
*
「――蒼一郎くん?」
大規の声で、蒼一郎ははっと我に返った。点滴の交換を終えた後、医務室のベッドに横になっているところだった。二人きりの室内。大規が心配そうに顔を覗き込んでいる。
「……あ、すみません……。なんか、ぼーっとしてたみたいで……」
自分の額に手を当て、大規の顔を見上げる。
最近、ぼんやりしている事が増えた。気付くと意識が上の空になっている。途中まではきちんと記憶しているのに、途中で意識がそれてしまうのか、誰かに声を掛けられて我に返る事も多い。夏の暑さのせいなのか、それとも身体の調子が悪いのか。今まではこんな事など無かった気がするのに。
「最近、ぼーっとする事が多くて……。僕の状態って、あまり良くないんでしょうか……」
不安になって聞くと、大規は首を横に振った。
「ううん。寧ろ、順調に回復してるよ。ぼんやりするのが多いのは、身体の状態が安定しているからだと思う。身体が安心して、リラックスしてるんじゃないかな」
「……そう、なんですか……?」
大規は頷く。彼の涼やかな声が心地良かった。
「もう数日で点滴も必要無くなる予定だよ。だから、そんなに心配しなくて大丈夫」
穏やかで優しい声。大規にそう言われると、本当にその通りだと思えてくる。不安も何もかも溶けていくようだった。
「もう少し休んでいきなさい。僕も此処にいるから、安心して」
「……はい……」
ぽたり、ぽたりと落ちる点滴を見つめる。再び意識が曖昧になっていく。酷く眠かった。
「先生、僕、点滴が外れたら……もっと先生の役に立ちたいです……先生の……」
「有難う。蒼一郎くんは優しいね」
大規の声が頭に響く。ずっと聞いていたい声。聞いているとほっとする声。蒼一郎は目を閉じる。
「何もかも心配要らないよ。不安になるのも、今だけだから」
次第に霞がかる意識の中、大規の言葉にどう返事をしたのか、蒼一郎には分からなかった。
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