2人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ
悲しい事があると、私は鏡の前に立つ。それはもう癖のようなもので、いつの間にか私の中に染み付いていた行為だった。欠けた鏡に映る大嫌いな自分の顔を見て、不安定な世界から、私は朧気になった私の輪郭を取り戻すのだ。私という輪郭を取り戻す儀式。私という存在を確認する儀式。
夏の終わりの空は既に暮れて、日没後の残光が辛うじて薄暗い部屋を照らす。薄闇の中鏡に映る自分は、まるで亡霊のようだと思った。ぼんやりと白く浮かび上がった輪郭に影が落ちた自分の顔。眼鏡を外す。鏡の中の自分と目が合った瞬間、私は反射的に目を逸らした。鏡の中から、恨めしそうにこちらを見つめる自分の瞳。自分の視線に痛みを覚える。自分の受けたショックの大きさを知った。痛い。痛い。知覚できる全てが私を傷付ける。皮膚に触れる白衣の感触も、遠くで聴こえる物音も、煩い蝉の鳴き声も、自分自身の思考も、何もかもを痛みとして認識する。ざっくりと、自分の内側を傷付けられた感覚。
上手くいっていた筈だった。少しずつ、回り始めた歯車は噛み合い、幸せな世界を形成していた筈だった。そしてそれは、これからもっと成長して、うつくしい物語を築く筈だった。それが、どうして。
私は信じてもいない神様に願う。どうか時間を巻き戻してください。私が間違えたところから、もう一度世界の選択をやり直させてください。不可逆な世界の流れを、もう一度初めから。
だけど、やっぱり神様なんていないから、私の願いが聞きいれられることはない。いたとしても、こんな何もかもから見放された研究と研究施設を、神様が顧みてくれることなんてないだろう。分かっている。本物が偽物に微笑むことはない。偽物が本物に成り代わることはない。私は鏡の前で蹲る。刻々と部屋から光は失われ、世界は闇に沈んでいく。どうしようもない現実を前に、私には為す術もない。
私は胎児のように蹲ったまま目を閉じて記憶を辿る。光の世界。光の時間。幸福だった夏の幻影を。
それは梅雨が明けたあの頃まで遡る。雨上がりの空の下、世界は確かに輝いていたのだ。
最初のコメントを投稿しよう!