夜風

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 真冬のある夜。時計の針は、長短どちらも北の方角を指している。  冷たい風が、乱暴に窓ガラスを叩いている。暗い寝室でフカフカの布団に顔を埋め、瞼を閉じ、羽毛越しに耳をそばだてた。  家の前を風が通り過ぎてゆく。きっと、ガラス一枚挟んだだけのところでわたしが寝ていることなど、知りもしないのだろう。見付けたら、ただ通り過ぎたりなんてしないはずだ。かくれんぼみたい、とふと思う。  戸外でその強風に曝され、たったひとり荒野に立っている自分を想像してみる。  誰もいない、何もない。凍てつく空気に満ちた地平線。高いのか低いのかよくわからない音が、ゴオゴオと耳の奥で反響している。短い草は必死に地面へしがみつき、吐いた息は白くなる前に遥か遠くへと飛ばされる。  でも、こんなに素晴らしい景色ってないな、と想像の中のわたしは思う。酷い寒さで指先や頬の感覚をとうに失ってはいたが、遥か上空に広がる光景は、思わず息を呑むほどに美しかった。  満天の星。月はない。宝石の欠片を集めた籠をひっくり返したように、光の粒が夜空を埋め尽くしている。風は儚げな星々を残し、月だけを吹き飛ばしてしまったのだろうか。もしそうなら、器用なものである。  気付けば、右手に何かを握っている。丸くて硬くて小さい何かだ。拳を目の高さに持ち上げ、隙間からそっと中身を覗いてみる。そこには歪な形の小石があり、瞬くような青い燐光を放っていた。拳を開き、小石を夜天光にかざす。深い群青色の内部に、皓々とした光が閉じ込められていた。なるほど、姿が見えないと思えば、月はこんなところに隠れていたのか。  ビュッと風が牙を剥く。短い毛先が頬を打ち、瞼を震わせたその一瞬。小石の表面に、葉脈のような筋が幾重にも走った。乾いた音を立てて亀裂が広がる。たちまち露わになった白銀色の球体が、呆気なく風に攫われ、中空へ巻き上げられてゆく。  あまりにも一瞬の出来事だった。掌に残った小石の欠片は、灯りの消えた電球のような鈍い灰色にくすんでいる。見上げれば、澄んだ星空の中央にポッカリと月が浮かんでいた。  ああ、自分は何ということをしてしまったのだろう。風は月を狙っていて、初めから攫う気だったのだ。その月を、わたしは風から守らなければならなかった。拳を小石ごと固く握って、うっかり指の合間から光が漏れぬよう、ただ我関せずという風に、涼しい顔で佇んでいなければならなかったのだ。  ハッとして、わたしは目を開けた。  低い天井から吊るされた、灰色にくすんだ白熱電球。時計の針は、長い方がわずかばかり東へずれている。  家の前を風が通り過ぎてゆく。風は、わたしに気付いていない。でなければ、ただ通り過ぎたりなんてしないはずだ。拳の中の小石のように、どこかへ攫ってゆくに決まっている。  心なしか闇の深まった寝室で、鼻先まで布団を被る。瞼は閉じない。暫くの間、嘘みたいに冴え切った目で、空っぽの電球を眺めていた。
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