【第三回】

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【第三回】

【第三回】  どこまで行こうか。  葵。あなたとともに行けるなら、どこまででも行ける。  あなたのためなら。僕はどこまででもどこへでも行ける。  そう話したら、あなたは嬉しそうに笑った。とても嬉しそうに、笑った。  ……笑顔の裏に、酷く寂しそうな心があると、思った。  陰りのある笑顔、というほどではない。どこかに違和感を覚えただけだ。それでも、違和感の中身は笑顔と真逆の感情である、寂しさなのではないかと察した。  すると。 「ねえ、きみさ」  笑ったあと、僕の表情を見て――葵の寂しそうな心を察して、曇らせた僕の表情を見て。  いつもの葵らしくない、強い怒りの感情を顕にした  灰色の、ときに青みがかったように澄み渡る虹彩が、怒りの炎を灯している。彩雲がゆらめいたかのように、ぎらりと光った。  え、と。間の抜けた声が僕の喉から洩れる。  何を、と思っていながら慌てていると、葵は雑に組んでいた脚を解いて椅子から立ち上がり、僕の方へ歩み寄って右腕を使って壁に磔にした。  磔、と言っても、僕の顔の右側に葵の左腕が、僕の両足の間に葵の左脚が突き刺さっただけだ。  逃げようと思ったら逃げられるだろう。だが、僕に突き付けられた葵の冷たい炎の眼差しが、僕を逃がさなかった。 「何を考えた?」  恐ろしい声に、総毛立つ。  いつも甘い声で話す葵の声が、鋭い針のように僕の心を射る。痛みで、僕の額に、背中に、全身に、嫌な汗がまとわりつく。  息が苦しい。肺の中で(かび)が蔓延っているような感覚。それでも、咳をすることさえも許されない。  何もない。  応える声が震える。頭蓋の中が空になっていくのを感じた。脳味噌は脂肪と蛋白質となって流れていってしまったのか。きっと、その脳味噌は今、僕の喉を通り抜けていったのだろう。飲み込んだものが空気なのだとしたら、こんな味は、感触は、しないはずだ。 「何を、考えたの」  葵が口に出す尖った声が、僕のことを追い詰める。  僕よりもずっと身長が低いはずの葵が、今は強大に見えた。  どうしよう。逃げてしまいたい。否、逃げてしまっても葵は僕のことを許さないだろう。それでもここにいるよりはずっとましだと思った。  大丈夫だ、葵の華奢な腕なら撥ね退けられる。心配することはない。やる、やるぞ―― 「逃げるな」  ――!  僕が葵の左腕を右手で払おうと、少し持ち上げた瞬間だった。逃げるな、という言葉を実現させるために葵は僕の右腕を掴んだ。  筋肉に、痛みが走る。葵の手が、爪が、僕の右腕を支配する。  ああ、逃げることさえ叶わなくなった。どうされてしまうのだろう。今から、葵は何をするつもりなのか。 「――……きみ、もういいや」  ふ、と葵の瞳から怒りの炎が消えた。  それ以外の、全ての光も、消え去った。  何が葵をそうさせたのか、何を思ってそんな表情をしたのだろうか。わからない。わからない。  必死に思考を巡らせていると、僕を解放し、葵自身も大きな感情を解放した。 「あーあ。気に入ってたのになぁ」  まるで、玩具を傷つけてしまった子供のように、葵は僕に語りかける。気に入っていたというのは、僕のこと、なのだろう。だが、言葉が表しているのは過去の形だ。今を表現するものでも、未来を表現するものでもない。  捨て、られる。  もう要らないのだ。  玩具にされているという自覚は薄々あった。それでも、葵の魅力に、葵の心情に、葵の思考に、葵の、葵の……全て、に。  いつの間にか惹かれていた。甘い泥に浸るように、葵の言動が示す全てに従っていた。それが幸福であり、快楽であり、愉悦であり、同時に葵にとってもそうであると信じていた。  だが、もう葵の中に僕はいないのだ。きっともう二度と、泥を啜ることはできないだろう。そう思うと、この先の人生が地獄で作られているのだという真理に辿り着いてしまいそうだった。 「ああ。そうだ。……いいこと、思いついちゃった」  いいこと?  それは何だ。どんないいことがあるのだ。僕は、縋るように葵に乞う。いいこと、とやらに僕を関らせてくれと、葵の美しい眼差しが僕を照らしてくれるなら、何だってしよう。  何度もそんなことを叫び続けた。最終的には葵の足元に跪いてまで。  葵は、僕が跪いている間に携帯電話で誰かに連絡を取っている。何度かの着信音がやりとりをしていることを示していたが、僕は葵が見る画面の向こうにいるのが誰なのか、わからない。  ちりんちりんと鈴のような音が数回なって、葵が携帯電話を操作して。  そして、葵は顔を上げ、僕に笑いかけて言った。 「明日を楽しみにしてて」  笑顔は、この世の全ての喜びを集めたかのような、純粋で、無邪気な、ただ明日が来ることを信じてやまない幼い子供のようなものだった。  最後に葵は僕の頬を優しく撫で、ひとつ頷くと踵を返した。 「それじゃあね」  いつの間にかすっかり外は紅い夕焼けの景色になっている。  暖色の光に煌めく葵の銀色の髪は絹糸のようで。  やわらかく弧を描く薄い唇は熟れた果実のようで。  蝶と見紛うほどに豊かな睫に包まれた青を孕んだ灰色の瞳は、命を持った硝子玉のようで。  それらは全て〈いつも通りの葵〉だった。  教室から出ていく葵の姿を、僕は床にだらしなく跪いたまま見送った。  それから、僕は数日間に渡って苦しむことになった。  突然で、苛烈だった。  言葉通りに、烈しい苛まれ方だった。本当に苛烈だった。  誰も彼も敵だ。そうとしか思えない。否、自分自身も敵なのかもしれない。  それほどまでに、僕は疲弊していた。数日間の道のりで、だ。  痛い。痛い。痛い。痛い。  眼が僕を忌避する。  声が怨嗟を吐き出す。  態度が突き放す。  僕はとにかくそういった痛みに耐えなければならなかった。  いわゆる〈いじめ〉とは違う、異質なものだった。  まるで僕がこの世界にいるのが異常で、どうしてそこに存在するのかと疑念を抱かれているようだ。  異常者がこの世界に紛れ込んでいる。  ならば、それを排除してしまおう。そんな心理が働いたのだろう。見知った級友からただの同級生、ひいては先輩後輩からも排除せんという行為を受けた。  ときに暴力であり、ときに金銭の強奪であり、ときに悪戯であった。  ありとあらゆる陰湿な行為が、僕に降り注いだ。  誰かに相談することができたら、少しはましになったかもしれない。  だが、教師も僕が悪いことをしたのだ、苛まれても仕方がない、と取り合ってくれなかった。  どうしてこんなことになったのかわからない。僕は何もしていない。  街にいる人々まで、僕のことを避けているような、嫌な噂をしているような気がする。  学校でさえそんな有り様だというのに、街でもか、と辟易した。  幸いなことに家には父母がいない。出張だかに行き暫く返ってこないというのだ。そのため、僕はたった独り残された自分の家で、なんとか息をつくことができた。  即席で食べられるようなものが、父母の手により数種類ばかり用意されていたが、食事を摂る気になれなかった。水分を最低限、摂取して。あとは自室に閉じこもっていた。  あんまりだ。どこにも居場所がない。  部屋の隅にある布団の上で震える。頭から毛布をかけて外気から身を守った。それでも、耳朶に幻聴が入り込むのを止めることができなかった。  いつ、こうなってしまったのか。きっかけも、始まりもわからない。  もしかしたら、始まりがない分だけ終わりも無いのかもしれない。  ああ、もうだめだ。  最後に、葵に会いに行こう。葵に、これまで一緒にいてくれてありがとうと。一緒にいる間はとても幸せだったよと。そう告げて、僕は自死を遂げよう。  そう決めてから、携帯電話を鈍い動作で操作した。  葵からの返信は、すぐにきた。 「あそこの、倉庫の中でね」  文字列をなんとか視認し、無理やり見てくれが悪くなくなる程度の服に着替える。  そして、履き潰しかけているぼろぼろの運動靴に足を突っ込んで、鍵もかけないまま、生きた屍のように指定された場所へ向かった。  僕と葵がいつも遊んでいた廃倉庫に入る。  錆びに侵され打ち捨てられた鉄骨たちが、幾本も積み重ねられたその上――一番高い場所に、葵は座っていた。  穴が空いた天井から洩れる月光に、鉄骨の頂点に座る葵が照らされ、まるで葵が玉座に座す夜の王のようだ。 「来てくれたんだ」  ああ、この甘い声だ。  この蕩けるほどの甘い声が、僕は大好きなのだ。  やっと笑ってくれた。やっと僕に笑いかけてくれた。葵が、神に等しい存在の葵が、微笑んでくれた。  何度も何度も葵との付き合いが間違っているものなのではないか、と考えたことがあった。原因は僕が葵にとって不利益になっているのではないかという猜疑心のためだ。  だがそんなことはなかったのだ。  こうして、葵は僕のことを愛おしい目で見てくれているのだから。  僕は、まだ葵の傍に居られるのだ。 「最近、ちょっと大変みたいだね。きみ、辛くないの?」  少し口ごもってから。僕は今の状態が辛いと、脱却したいと、言った。同時に、自分でさえも僕の敵に感じているため、どうすることもできないのだとも伝えた。 「じゃあさ。ぼくが助けてあげる」  世界が、輝いた。僕の崇拝する葵が、僕を助けてくれるというのだ。  これ以上の幸福はない。あまりの感動に、僕の膝が崩れ、砂とも埃ともつかないものが積もった倉庫の床に、落ちた。  終わるのだ。辛い時間が。それも、葵の手で。  涙が出てきた。よかった、と思った。 「ね、約束して。どんなことになっても、きみはぼくのでいてくれる、って」  約束しよう。約束しようとも。  葵とともにあれるならば、そんなこと容易い。葵のためなら、僕は僕の何を犠牲にしても良い。  がくがくと痙攣でもしたかのように、僕は肯定のため首を縦に振る。  僕の滑稽な姿を見て、葵はゆったりと、熟れた唇に笑みを浮かべた。 「はい、これ」  葵は迷いなく僕に細い試験管を投げた。なんとか受け取り、眺める。栓がしてあるが、捻れば簡単に開けることができそうだ。  ……これは? 「それを飲んで」  疑問に思っていたのを悟ったかのように、葵は告げた。  中身は、何だろう。葵に問うてみる。 「〈きみがいる世界〉を終わりにする薬、だよ」  僕のいる世界。なんだか、抽象的でよくわからない。もしかしたら、苛烈な数日間のせいで疲れ切っていて、頭が痺れているのかもしれない。  だが、終わりにする薬ということは、これを飲んだら苛烈な生活から救われる、ということだ。 「大丈夫。少し苦いけど、それだけだよ」  大丈夫と葵が言うのであれば、飲んだところで葵の思い通りになるだけだ。  覚悟なんてとうに決めている。倉庫に這入ったときにはもう、葵の言いなりになることだけを考えていたのだから。  僕は、栓を外して一気に中身をあおった。確かに苦い。だが我慢できないほどではない。痺れるような刺激もあるが、身体が拒否をするということもなかった。  飲み終わって、はあ、と息を吐く。葵の方を向いて誇らしげに微笑む。葵も、喜んでくれたようで楽しそうな笑顔を僕に投げかけた。 「偉い、偉い! よくできたね。褒めてあげる。きみはやっぱり、ぼくの可愛いお人形さんだ」  子供のように無邪気な表情で、手を叩きながら葵は立ち上がる。階段状になっている鉄骨を踏み、ゆっくりと僕の傍に降り立つ。  葵、僕はやれたよ。これで、救われるのだろう?  問いかけようとした瞬間だった。 ごぼ、が、がばば、げぇ――  地面の上で溺れ死んだ。  魚のように、自分が摂取できるはずの空気を欲して口を開閉する。その度、赤い、否、紅い、否、赤黒い、否……名状しがたい、赤を基調とした謎の色の液体が僕の口からあふれ出した。  どうして僕は、葵の前でこんな醜いものを吐き出しているんだ? これでは葵の洋服を汚してしまうではないか。  考えている間にも、僕の口から液体はあふれ出る。下着の中も何らかの液体に塗れていく。  嫌だ、嫌だ、これは何だ。 「いい薬、でしょ?」  いい薬。ということは、先ほど飲んだ試験管の中身がこの現象を引き起こしているということか。  悟った数秒後、僕の身体に激しい痛みが襲い掛かった。  稲妻が落ちたのかと思うほどだ。身体が灼けている。違う、むしろ溶解していっている。  内臓から、僕の身体が溶かされていく。  辛うじて残っている骨と筋肉、皮下脂肪。残っていたもの全てに痛みが走った。なまじ残っていただけ、痛みが激しい。痛覚が総じて雷に打たれたような感覚だ。 「あははっ、綺麗だね」  僕は、葵に見下ろされていた。葵が僕のいる床の位置にまで降りてきたというのに、だ。いつの間にか、僕は無様な恰好になっていた。跪くでも崩れ落ちるでもなく、赤色の海に沈んでいた。  葵は濁り、固まり始めた赤い血の海の中、くるりと踊るように一回転した。  ぐしゃりと血液が飛び散って、海に落ちる。やわらかい生菓子の様に震えて、海の中に姿を消した。沈んでいくのを見送ってから、葵は僕に向き直る。 「ねえ。きみ、良い子だったね。本当に、可愛い、よ」  過去、形。  また過去形になってしまった。僕は。もう。人形。玩具。何も。  考え、が、あ、ああ……あ、 「傷がついたきみのこと、最後に思い切り壊したかったんだ」  壊したかった。  葵が、壊したかったなら……最後に、僕を愛してくれたんだから。 「愛していたよ。可愛かったよ。大好きだったよ。最後まで、こうやってぼくのことを全部信じて、いつでもぼくを守って、何をしてもぼくの味方でいてくれた、きみのこと」  葵を、守った。そうだ、僕は何に変えても葵のことを守ってきた。  悲しまないように。苦しまないように。辛いことがないように。 「だから、最後まできみの味方をしようって。決めてたんだ」  愛してくれた。  そうか、愛してくれたのだ。  なら、いいか―― 「だから――」  …………? 「傷が入ったら、もう玩具じゃないでしょう? だったら、最後は壊してあげようって、決めたんだ。最後まできみの味方でいるために」  最後……、と、言った。今、葵は最後と言った。 「傷がついた要らないものは、責任もって棄てなくちゃ。ああ、すっきりした」  そうか。僕はもう要らないんだ。  なんとか葵の顔を見ようと。最後にあの麗しい顔を見て、葵の意味するところの〈最後〉を迎えようと思った。  葵を見上げると、秀麗な瞳を嫌悪に歪め、僕に怒りの感情を向けた。 「汚い眼で、見ないで」  何か、細かい凹凸がついている球状のものを転がされたような触感を頭に感じた。  葵の黒い革靴で頭を踏まれたのだ。  最後にほんのちらりと見えた顔は。  あのとき感じた寂しさが、微量に、ごくごく微量に含まれていた。そんな、気がした。 「その眼、嫌い」  思い切り頭を蹴られた。その拍子に、僕の首があり得ない方向を向いた。  もう、い、い おわり 「ばいばい、ゴミクズ」  きこえた、けど  もう、めのまえが、くらく―― 【最後は味方 了】
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