第一章 燻る鼓動(ニコロ)

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8 みちるは、憤慨するニコロにこれ以上逆らえないと察知し、大人しく身を任せていた。 ニコロのダークグレイのトレンチコートの中で、みちるはかたかたと細かく震えている。 海のすぐ近くの木立の陰に、行く手の暗がりの中に建物がぼんやりと現れた。 それは小さな丸太小屋で、自然の森の番小屋であること。 みちるは、以前一緒に散策していたロレッタが話していたことを覚えていた。 入り口の戸は、大きく開け放してある。 みちるを自分の両腕で抱えているニコロは、踏み台に上がって中に入り、器用に戸を閉めて鍵をかけた。 部屋の一隅をダブルベッドが占めている、その下にモヘアの織物が折り返されている。 ニコロは、その下にみちるをおろした。 その弾みにトレンチコートの中にある、メタリックブルーの携帯電話がこぼれ落ちる。 「俺は、湯沸かし器をつけてくるね。みちるはここで大人しく待っていて。寒いだろうからベッドの毛布を引き剥がすといいよ」 ニコロは、そう言うと携帯電話を拾い上げて裏口から外へ出て行った。 みちるは、解放されたように小さく息を吐く。 ニコロに言われた通りにトレンチコートを放り毛布を取って裸体に巻きつけるみちるは、ベッドに腰をおろす。 みちるの両脚は、わなわなと震えている。 みちるは、立っていられなくともかく座って自分の気持ちを落ち着かせたかった。 みちるの頭の中で、様々なことが入り乱れている。 いろんなことがありすぎて消耗しきっていて、みちるは筋立てて物事を考えることが出来ない。 再度、自殺するために海へ行く気力は、両脚が震えすぎているし、完全に疲れ切っているみちるには今のところ湧き上がらない。 ニコロが戻って来て、ああしろこうしろと命じるのをただ黙っているほうが今は楽かも。 ロレッタの弟だし、男色家ときいているし何よりも安全なのだからと、みちるはそんなことを黙々と考え沈んでいた。 部屋の灯りに浮かんだのは、思わずたじろいでしまうくらい二メートル以上ある頑強で大きな身体に刻まれた鍛え込まれた無駄のない胸板。 それなのに顔立ちは中性的で、女性よりもずっと美々しい。 姉のロレッタと同じく見事な造形は彫り深く、麗華な紅蓮色の瞳は、本人の強固たる意志の強さを滲ませている。 いかにも女性が好みそうなまるで天使のように物腰柔らかで美しいのに、彼自身がまったくもって嗜好が違うこと。 ロレッタが嘆息混じりに話していたニコロの性質は、みちるにとってありがたかった。 みちるは、ロレッタに似ているとはいえ偶発的でも初対面の異性と肌を合わせるつもりはなく、彼女自身本質的には生真面目で奔放な性格ではない。 みちるは、ニコロのように同性嗜好ではないのだが、彼と同じ経験上極度な男嫌いだった。
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