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不安症の男
男は極度の不安症を患っていた。「極度」というだけあって、常人のそれとは比にならないものだ。
今朝は眠れなかったにも関わらず目覚まし時計が鳴ることで、これから永遠に眠れなくなるのでは、と妄執に囚われ、目覚まし時計の針をずらし、電池まで抜いた。そして身体を起こし、朝食に用意した焼き鮭は先週同じものを食べた際に外出先でトラブルになった事を思い出し、迷った挙句捨てた。
そして食後のタバコを吸おう、となって灰皿を用意して何本か吸ってから換気扇を止めると、使っていた灰皿の大きさが小さく、これでは吸い殻が気付かない内に漏れていて自分が出かけている間に火事になるのでは、と心配になって其処彼処に水を撒き、挙げ句の果てには火災報知器に向かってライターをかざし、スプリンクラーを誤作動させて家中をびしょ濡れにした。男の家は集合住宅であった為、当然ながら火災を知らせるベルが全戸に分かるように鳴り響き、辺りは大騒ぎになった。
そしていざ、家を出ようとすれば先ほどの騒動に腹を立てた人間が自分を殺しに来るのでは無いか、と不安になりバットを持って外に出かけることにした。
そして、当然ながらバットを持って外に出ている成人男性に向かって職務質問をしない警官はおらず、今、歩道で立ち往生を男は強いられていた。ここまでが、今日のハイライトだった。
「君ねえ、平日の昼間に明らかに職に付いていない人間がバットを剥き出しで持ち歩いていたら私達にしてもね、話しかけない訳にはいかないのだよ。ただね、私たちを見た途端逃げるというのは余計やってはいけない事だよ。それは半分自供しているような物だからね。それで、君は何をしに行くところだったの?」
男は、前から近づいて来る警官を見るや否や、走って逆方向に逃げ出していた。そして、当然ながらその様子を見て警官もその漕いでいる自転車をフルに走らせ、男に追い付いた。その際、男が持っていたバットのグリップが警官の前輪に引っかかり、警官は派手に自転車からハンドスプリングを行うが如く、前に吹き飛んだ。幸い、警官が温厚な性格だった為逃げ出した上にバットが自転車に引っかかった件についてはお咎めなしだったが、男はいつ警官が心変わりして、公務執行妨害で現行犯逮捕されないか気掛かりで、警官の話は右から左だった。
「何もするつもりはありません」
「何もするつもりは無いなら、外に出る事もないだろう。どこかに行く予定とかは?」
「それもありません。お金もありませんから」
「君、失礼だが働いているのかね?」
「さっきあなたがおっしゃったではありませんか。私は職についておりません」
男とて、職についていた時期はあった。しかし、職につけばリストラされるのではないか、営業先で何か失言をするなり、備品を壊すなりしてとんでもない損失を会社に生み出し、一生働いても払いきれない賠償金を負ってしまうのでは無いか。そして一生働くのならば、尚更リストラは命取りにならないか。と思考のラビリンスに迷い込み、「働く」という事が摩天楼の頂上を目指すが如く、気の遠くなる事に感じられ、仕事を辞めたのだった。
男のこういった質で唯一良かった、良かったというよりは怪我の功名というべきか、まともな思考回路をしていないが故に生活保護の申請は易々と通り、何とか生きていく事自体は出来ていた。
「持ち物を見せてくれるか」
「これ以外持ち合わせておりません」
そう言って男は、バットを警官に突きつけた。
「君ね、今時バットを片手に持って公園に野球をしに行く人間なんて、子供でも余りいないよ。今日はこの辺にしておくけど、散歩でもするならそれを置いてからにしなよ」
そう言って警官は、男の視点がいつまで経ってもぐるぐると回っており、足は入れ替え、ダンスを踊るようにフラフラとしている様子を見てか、これ以上は関わりたく無いと言ったばかりに職務質問を切り上げ、自転車を走らせて来た道を戻っていった。
「とんでもない。バットを手放せば、いつ襲われるか分からないじゃないか。いやしかし、バットを持ったままでは先程のように因縁をつけられ、いつかは捕まってしまうかもしれない。ああ、どうすればいいんだ私は・・・」男は、その場から動けなくなった。
だが男はその内に、こうして外に出る事もままならなくなってしまった。不安症が重くなるにつれて、次第に正常に意思疎通を行う事も難しくなり、離人症まで患って自身が何をしているか、何を考え何を話しているかを認識する事も出来なくなった。この事態を受けて、彼の担当医師は男を病棟に入院させる事を決定した。
「ああ不安だ、精神病院に入って6ヶ月、症状は劇的に良くなったものの、今度はいつ精神状態が改善したと判断されてケースワーカーに保護を打ち切られるか。こうなったら、私がまだ不安定だと言うことを証明するしかない、手始めに病院の窓ガラスを割ったりしてみるか、いや、手をガラスで傷つけるかもしれない。ならば、ナースをダッチワイフと勘違いしたふりをしてセクハラでもするか。ダメだ、それが本物のダッチワイフだった場合私は本当に頭がおかしい人間になってしまう。ならば、いっそのこと窓から飛び降りて・・・」
「先生、彼は何をしているんですか?」
男の様子を見ていたナースが担当医師に尋ねる。
「ああ、あの人ね。症状が悪化したから入院という形になったんだけど、逆に症状が改善する事が不安になっちゃったみたいでどうしたら症状が改善しないかを考え続けてたらもっとおかしくなってしまったんだ。彼は不安がっているが、あの分なら、当分生活保護を切られる事もないだろうな」
ふらふらしながら独り言を漏らし続ける男を見て医師は打つ手無し、といった具合に呆れて見せた。
「ああ、不安だ、不安だ。もういっそ、働き始めた方が安心なのでは無いか。いや、そうなるとリストラが不安だ。仕事で何か大きなミスをして、多額の借金を負うかもしれない。社員の恨みを買って、殺人事件に発展する可能性もある。なら、生活保護を申請しよう。そうだ、今から役所の福祉事務所に連絡をして・・・」
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