20.赤血の君◆ノア視点

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20.赤血の君◆ノア視点

壁に掛かった大きな置き時計が夜の9時を報せた。 もうこの部屋に入って一時間が経とうとしている。そろそろ引き上げた方が良さそうだ。もたつく時間はないと分かってはいるものの、知っておきたい情報はまだあった。 「すみません、これは個人的な質問なんですが…」 シグノーは余程怯えているのか顔を上げない。 「リゼッタは婚約する前に交際していた殿方などいましたか?それとも貴方が初めて?」 「……彼女は僕以外の男を知らなかった。だから落ちぶれた家柄の病人でも需要があったんだ」 「そうですか。それは良かったです」 落ちぶれた家柄の病人、なるほどそれは否定できない事実だろう。調査書によると幼い年で実の両親を亡くした彼女を引き取ったアストロープ子爵は酒とギャンブルに金を注ぎ込む没落貴族だ。おおよそ玉の輿目当てで教育に投資したのだと思うが、金に化けるどころか返品された娘を見て大層落ち込んだはず。彼女が娼館に行き着いたということは、勢いで勘当でもされたのかもしれない。 今となっては、どうでも良いこと。 「じゃあ、やっぱり消えてください」 「………は?」 「男はよく女の初めてになりたがり、女は男の最後になりたがる…と言いますけど、彼女の最初は貴方なわけです」 「あんな女の処女に価値などあるものか!」 「貴方の童貞よりは何倍も価値があるでしょうね」 言いながらその粗末なモノを銃で押さえ付けると、撃たれると思ったのか悲鳴を上げて飛び上がった。 「元婚約者とか、最初の男とか要らないんです。僕は貴方と兄弟になる気はないですし、貴方の記憶の中に僕の知らない彼女が生き続けることも反吐が出るほど嫌です」 シグノーが死ぬとその記憶も消えてなくなる。死人が彼女を脅かすことはもう出来ない。美しいリゼッタの純潔を知っている男がこの世から消えるというのは、自分にとってこの上ないハッピーエンドだった。 しかし、如何せん時間がない。 このままノロノロとピロートークのようにシグノーに時間を費やしている場合ではないのだ。上着のポケットに入ったロープを手で確認した。シグノーの動きなら片手で封じることが出来るだろう。 「これは僕の恨みであって、リゼッタは関係ありません。どうか憎まないであげてくださいね」 手早くロープを巻くと一気に締め上げた。初めこそ必死で喉元を掻きむしっていたシグノーの指もやがて力が抜けて床に落ちる。先進国では絞殺の時にできる引っ掻き傷で自殺と他殺を見分けるなんて論文が発表されたらしいが、カルナボーン程度の王国でそこまでの確認が入るとは思い難い。彼の自死さえ仕立て上げれば、後はその最愛の義姉が自責の念に駆られて理由を語ってくれるだろう。 伸びた大きな身体をズルズルと引きずってロープの先をドアノブに括り付けた。 もう二度と目覚めないシグノー・ド・ルーシャの顔を見下ろす。なんてことないただの男。飛び出た顎以外は目立った特徴もない。 こんな男に彼女は見捨てられた。失意の中でやっと辿り着いた娼館にまでも亡霊のように追い掛けて来て、彼女を傷付けた。それだけで万死に値するだろう。 「感謝しています、シグノー王子。貴方が婚約を破棄してくれたお陰で僕はリゼッタを手に入れることができる」 微動だにしない亡骸に頭を下げた。 体裁のためか未だに左手の薬指に嵌められている指輪を抜き取る。開いた窓から投げ捨てると、それはすぐに暗闇に消えた。
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