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11.ノアが知ること
ノアが再び娼館を訪れたのは一週間後のことだった。
「どう?仕事には慣れてきた?」
「……なんとか」
気落ちした顔で答えると彼は少し笑って、ベッドに座ったまま私の方へ両手を広げた。大人しくそちらに歩いて行き向かい合うように腰を下ろす。
ノアの大きな手が私の頭を撫でた。
「がんばったね」
その一言だけで、私は目頭が熱くなって泣きそうになる。ずっと欲しかった言葉を彼は当然のようにくれる。私は目を閉じて、ただただ優しく髪の上を滑る柔らかい手の感触を感じていた。
どちらが客か分からない。ノアは本当に私のことを指名して、また朝まで長時間コースで来てくれた。コースの価格までは知らないものの、私がこの一週間働いた中で朝までコースなんて利用する客は一人も居なかったので、娼館にとって彼が相当な良客であることは明白だった。
花束の礼を伝えると「気に入ってくれた?」と聞かれたので、部屋に飾って香りを楽しんでいると答えた。花の元気がなくなってきたらドライフラワーにするつもりだ。
「今日は少し先に進んでみようか」
ノアの言葉に私はこくんと小さく頷く。
啄むようなキスに応えながら、ノアが相手であれば最後まで受け入れてもいいのにと考えた。どういうわけか自分のことを宝物のように扱ってくれる彼の優しさには感謝しているが、娼館という場所故に行うべき行為を回避して金銭を頂いているのは申し訳なく思う。
「何を考えてるの?」
ノアの指が唇に触れた。
返答するために開いた口の隙間から二本の指が差し込まれて歯列をなぞる。
「……やめひぇふははい」
「ごめん。つい面白くて」
引き抜いた指を舐めてノアが笑う。
それだけで心臓の鼓動は速まるものだから、静かにするように叱責しながら顔に力を込めた。
「私は娼婦です。貴方に買って頂いた時間に相応しい癒しを提供させてください」
「リゼッタ、俺はべつに快楽のために君を呼んでいるわけではない。君がそうしたいなら良いけれど」
赤い瞳から彼の真意は読めない。
「……そんな、じゃあ何のために…?」
「言っただろう。君は高級なデザート、時間を掛けて食べるに値する逸品だ」
「ノア様、それは私のことを買い被りすぎです…」
「そうかな?シグノー・ド・ルーシャの元婚約者にはそれぐらいの敬意を払うべきだと思うけれど」
雷に打たれたような衝撃が走った。ノアは相変わらずの笑顔を私に向けている。その穏やかな笑みに私は初めて恐怖を覚えた。シーツを掴む指先に力が入る。
「………今、なんと仰いましたか?」
「敬意を払うべきって言ったんだよ」
「いえ、どうして私が…」
「ああ。君がカルナボーン王国第二王子の婚約者だったという話ね。実は仕事の関係で王室事情には詳しくてさ」
「私がシグノー様の元婚約者だと知った上で、貴方は近付いて来たのですか…?」
信じたくない。何もかもゼロになって転がり込んだ娼館なのに、よりによってノアがシグノーと私の関係を知っていただなんて。しかし、元婚約者を狙ったところで婚約は破棄されているのだから私に王家との関わりはないのだ。
(いったい何のために……?)
疑わしい目を向ける私に気付いたのか、ノアは軽い調子で「ごめんごめん」と謝った。
「初めに言うべきだったかな。べつに君の過去に興味を持って指名しているわけではないよ」
「……信じられません」
「婚約破棄された女に利用価値がないことぐらい俺だって知ってる。しかも繋がったところでシグノーは第二王子だ」
骨折り損だよ、と顔の横で手を広げて見せる。
つい先ほどまで優しい良客として心を許していたノアのすべてが、急に信じられなくなっていた。揺さぶられた心臓が拒否の音を上げている。
温かい両手が私の頬を包んだ。
「リゼッタ、信じてほしい。君を傷付けないと誓う」
「………シグノー様には言わないで…」
「大丈夫。誰にも話さない」
私が一番恐れていること。それは、私が娼館で働いているという話がシグノーやアストロープ子爵夫妻といった関係者たちに伝わること。娼婦という仕事を恥じているわけではないが、これ以上彼らから蔑みの言葉を受けることは、僅かに残ったプライドが許さなかった。
浮かんだ涙にノアの舌が触れる。
その腕に身を預けながら、頭はまだ過去を彷徨っていた。
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