22.10分間

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22.10分間

「……え、ノア様が?」 シグノーの死から一週間ほどが過ぎた頃、ようやく顔の腫れも引いて来て少し化粧をしていたところへナターシャがやって来た。「ノアが訪れて来た」とだけ伝えて出て行くものだから、ヴィラに借りたメイク道具を戻して、慌てて後ろを付いて部屋を出る。 娼館は朝を迎えていて、私は既に朝食を済ませていた。太陽が出ている時間にノアが訪れてきたこと、営業時間ではない時間帯にナターシャが彼を招き入れたことが不思議だった。 「ナターシャ、私はまだ接客は…」 「大丈夫だ。べつに仕事するわけじゃない」 何かされそうになったら玉を蹴り飛ばして良い、と恐ろしい事を言うあたり、彼女とて喜んで案内してくれているわけではないようだ。ノアが常連様だから故の特別対応なのだろうか。まだギプスは取れていなし、こんな姿を見て彼を心配させてしまわないか不安になった。 客が去って静まり返った廊下をナターシャはズンズンと進んで行く。その突き当たりの部屋はお馴染みの、ノアと過ごす部屋だった。 「いいかい、10分だ。10分過ぎたら呼びに来るからね」 「なんのこと?」 「詳しくはノアに聞けば良いさ」 そう言ってナターシャは来た道を戻って行った。 私は呆気に取られて立ち尽くしていたが、ノアが待っていることを思い出してドアノブに手を掛けた。 「………ノア様!」 会わない間に、少しは気持ちが薄れていくと思っていた。眠る前に何度も思い返したその彼が、今、同じ空間に居る。美しい銀色の髪、宝石のような赤い瞳。 嬉しい気持ちと同時に久しぶりに顔を合わすことへの緊張も湧き上がる。私はドアを閉めながら、何と声を掛ければいいか考えていた。 「リゼッタ、こっちにおいで」 顔を上げると手招きするノアの姿が目に入る。恐る恐る近付いて行って、ソファに腰を下ろした。大きな手がそっと頬に触れる。 「……まだ痛い?」 「いいえ、もうだいぶ腫れも引きました」 何と説明すれば良いだろう。ナターシャは私の怪我について、どこまでノアに伝えたのか。まさかシグノーにされたなんて言うはずがないし、でも階段から落ちたなんて言ったところで無理がある話だ。 「いろいろ話したいことがあるんだけど、ナターシャから10分しか時間を貰えなくてね。過ぎたら出禁にするって」 「……そうなんですね、」 「変なところで頑固なんだよ」 困ったように笑うノアに釣られて私も表情を緩めた。 「ノア様、ごめんなさい…三回目の約束が守れなくて」 「その事で相談があるんだけどさ」 「相談?」 「アルカディア王国に来ない?」 「………え?」 長い沈黙が流れる。この沈黙の間で3分ほど時間を消費したかもしれない。私は頭の中で隣国の強国アルカディア王国とノアの関係性を探っていた。 アルカディア王国といえば思い出すのはヴィラに聞いた野蛮な王子の話。体重が200キロあって身長は2メートル、王子というやんごとなき身分にも関らず、望んで戦争にばかり参加する獣のような男。 「……ノア様、今更ですがお名前を伺っても?」 「俺の名前はノア・イーゼンハイム」 「………貴方は…、」 そんな、まさか。同姓同名という可能性は? 「実は俺、アルカディア王国の王子なんだ」 「……!申し訳ございません、皇太子殿下…無礼をお許しください!」 「リゼッタ、あまり畏まらないでほしい。俺は君と対等に話したいから」 「しかし、殿下……!」 「裸で風呂に入った仲だ。気軽に接してよ」 ポンポンと頭を撫でるノアに仕方なく頷いた。 とんでもない大ニュースだ。ヴィラが知ったら気絶するかもしれない。管理人であるナターシャは知っているのだろうか? 今まで自分はノアに対して、取り返しのつかない行いをしていないか思い出そうとする。そういえば、彼は以前私の性器を舐めてくれたけれど、あんなの王室に知られたら私は死刑になるのでは。というか、何故もっと早く教えてくれなかったのか。 「あ、もうすぐ10分経っちゃうね」 「そんな…もう?」 「さっきの話考えておいて。ナターシャには俺から伝える」 アルカディア王国に行くことが何を意味するのかよく分からない。しかし、私はここ、娼館セレーネで拾ってもらった恩があるのだ。ノアと一緒に居られるのは嬉しいことだけど、ヴィラやナターシャと離れることは寂しい。 「それと、もう一つ」 「?」 「君を抱く話はしばらく延期でいいよ。そんな状態では残念ながら無理だからね」 「……ごめんなさい」 「お詫びにキスしてほしいな」 びっくりしたが申し訳ない気持ちも強かったので、目を閉じるノアの頬を両手で包んで口付けた。ノアは薄く目を開けて微笑むと、満足そうに唇を舐める。 「リゼッタ、君は俺だけの宝物だ」 甘い言葉に絡め取られた私は気付かない。ノアの愛はドロドロに重くて、その裏には狂気をはらんでいると。
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