23.交渉と妥協点◆ノア視点

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23.交渉と妥協点◆ノア視点

弾む心でそのままナターシャの待つ管理人室へ向かった。久しぶりにリゼッタの顔が見れたお陰で、かなり気持ちは落ち着いた。しかし、やはりその顔に残る僅かな腫れや痛々しいギプスを目にすると、彼女をそんな姿にしたシグノーを葬り去ったことは間違いでないと確信できた。 「……時間内に戻ってよかったよ」 管理人室のガラス窓を軽くノックすると、面白くなさそうな顔でナターシャが顔を上げた。 「ナターシャ、ちょっと話があるんだけど」 「延長はなしだ」 「そうじゃなくてさ。リゼッタの身請けのことで」 「……なんだって?」 驚いた顔でガラス窓を横にスライドする。 頭の上に置いた老眼鏡を目元に掛け直して「正気か」という面持ちでこちらに向き直った。 「いくらで譲ってくれる?」 「ダメだ。まだリゼッタはうちに来てから日も浅い。あの子を迎え入れた娼館で恩を返してもらう必要がある」 「そういう、こうあるべき論は要らないよ」 「……ノア、あんたがいくら太客でもここにはここのルールがあるんだ」 なかなか首を縦に振らない。 こんなことなら無理矢理にでも攫った方が良かっただろうか。しかし、自分が子供だった頃から世話になっているナターシャを敵に回すことは避けたい。どうにも頓挫しそうな話し合いに溜め息を吐いた。 ナターシャは苛立たしげに窓を閉めようとする。 「待って、通常の身請けはいくら必要だっけ?」 「うちはどんなに客が付かない女の子でも3000万モンドは出してもらう約束になっているんだ」 「ははっ、ぼったくりも良いところだね」 気を悪くしたのか、こちらを睨み付ける老婆は「過去最高額は1億モンドだ」と付け加えた。 「分かった。じゃあその倍出そう」 「なんだって?」 「もっと出しても良い。言い値で買うよ、だから…」 「ダメだ」 「それは今は売る気がないってこと?」 落胆して聞き返すと、ナターシャは頷いた。 本当に意地悪な管理人だ。二ヶ月も客が取れない彼女を囲い込んだところで娼館にとってメリットはないのに。よほど彼女を気に入っているか、自分が信頼されていないかのどちらかだろう。 「じゃあさ、リゼッタの骨折が治るまでの期間をアルカディアで預からせてくれ」 「………はぁ?」 「どうせ将来的に俺が身請けするんだ。今のうちに社会勉強だと思って少しぐらい貸してよ」 「馬鹿なこと言うんじゃないよ!医者からは安静にするように言われてる。我儘も大概にしな!」 入れ歯が飛び出す勢いで怒鳴られた。 思わず手で耳を塞いでしまう。 さて、どうしたものか。これはかなり雲行きが怪しくなって来た。確かにリゼッタはここに来てからまだ日が浅い。身請けが難しいとして、一時的にアルカディアに連れて行くことも無理となると、二ヶ月間自分は彼女と会えなくなってしまう。会えたとしてもまた10分という期限付き。 「……アルカディアは医療も進んでいる。カルナボーンで治らなかった病気も回復の余地がある」 シグノーとの話でも出たのは彼女の身体の弱さ。虚弱体質なのか根本底な原因があるのか分からないが、この小国で得られなかった先進医療がアルカディアでは提供できる可能性は大きい。 ナターシャは口を真一文字に結んで唸った。彼女とて、リゼッタの健康は改善したいポイントの一つであるはずだ。これだけの期間働いていて、知らないはずがない。 「二ヶ月の間、無理はさせないと誓っておくれ」 「もちろんだよ」 「リゼッタには週に一度は手紙を書かせて」 「驚いたな。鉄の管理人ナターシャが、まるで母親みたいなことを言うんだね」 素直な感想を述べただけなのに、ナターシャは噛み付くように「大切な商品なんだよ」と怒鳴った。笑って手を振りながら謝る。支度をさせる、と言って管理人室を出ていくその小さな背中を見送った。 ◆3000万モンド…1億8000万円。1モンド=6円で換算してください。
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