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29.ノアの優しさ
生きていてほしい、と話すノアの目を見つめた。
赤い瞳と視線を交えると自分の気持ちがすべて見透かされてしまいそうで怖くなる。本当は娼婦ではなく恋人と紹介されて嬉しかったこと、ノアと一緒に居るだけでこんなにも心臓が煩くなること、時々何もかも全部彼に打ち明けて逃げてしまいたくなること。
「……ありがとう、ございます」
その優しさは沼のようだ。一歩足を踏み入れると気付かないうちにどんどん深みに嵌ってしまう。
お風呂準備できたね、と言いながらノアは私に服を脱ぐように指示した。変に意識する方がおかしい気もして、なるべく手早く脱ぐ。買ってもらったワンピースの背中のホックだけ、どうしても一人で外せなかったのでお願いした。
お湯はちょうど良い温かさを保っており、浸かった指先から心までじんわり温まっていくようだ。「アルカディアの水には治癒の効果がある」と言うから感心した。確かにカルナボーン王国の泉質とは違って、滑りがあり、ジリジリした痺れのようなものを少し感じる。
「リゼッタ、隣に座って」
呼ばれた方へ歩いて行こうとする時につるんと床で滑った。焦って出そうとした利き手は固定されたままだったことを思い出す。ノアが咄嗟に前に出て支えてくれなかったら、美しい大理石の床に頭を打ち付けて流血騒ぎになっていたかもしれない。
「大丈夫?」
「……ご、ごめんなさい」
手を借りて体勢を整えた。湯に浸かって半分ほど濡れた髪が胸元に張り付く。
「疲れが出ているかな?」
「いいえ。滑ってしまっただけですから」
「そう、なら良いけど…夕食を食べたら散歩でもしない?」
「ぜひ…楽しみにしてますね、」
笑って答えると私の顔をしばらくノアが見つめた。どこか迷いがある表情で口を開く。
「リゼッタ、さっき両親の前で君を恋人と紹介した話だけど……アルカディアに居る間だけでも、恋人として振る舞ってもらうことはできる?」
「え……?」
「両親は俺が娼館で遊んでいることを知らなくてね。説明も面倒だし、できれば了承して貰えると助かる」
「…分かりました。ノア様にはお世話になっていますから」
「うん、ありがとう。じゃあ先ずは、その様付けを止めてもらおうかな」
恋人のことをノア様なんて言わないでしょう、と言われたので小さく頷いた。ノアは大切なお客様だったので、マナーとしてこのような呼び方を取っていたけれど、彼の申し出ならば仕方がない。
「名前を呼んでみて」
「……ノア?」
あまりにも嬉しそうに笑うから、心臓が掴まれたようにギュッとした。
どうしてそんな笑顔を向けるんだろう。ノアのことだから、きっと皆に平等に同じような顔を向けているのだと思う。だけど、それは私が彼のことを意識するには十分であって、彼にとって自分の存在は特別なんじゃないかと勘違いさせる恐ろしい効果があった。
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