42.アリスの牽制

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42.アリスの牽制

「そういえば、ナターシャが手紙を書けって」 頭からシャツを被って思い出したようにノアは言う。 私はまだ肩で息をしながら無限とも思える彼の体力を羨ましく思った。爽やかな見た目に反して、若い頃から娼館に通って来た彼は間違いなく男であり、一度捕まるとかなりの長勝負となるようで。 温室育ちの御坊ちゃまにしては逞しいノアの身体を見つめる。そういえば以前も腕に真新しい傷を作っていた。山に籠る趣味でもあるのかとぼんやり考えていると「まだ足りない?」と尋ねて来たのでブンブン首を横に振った。 「ナターシャに手紙を書けば良いのですね?」 「うん。俺って信用されてないみたい」 落ち込んだように肩を下げるノアの姿を見て少し笑った。ナターシャはその昔、イーゼンハイム家に仕えていたと話していたし、二人の間には私なんかが知り得ない長い歴史があるはずだ。 後で紙とペンを渡す、というノアの言葉に頷いて私も立ち上がった。床に落ちた服を拾い上げて洗面所まで歩いて行く。 鏡を覗き込むと、少し落ちた化粧で乱れた髪の自分が映っていた。娼館に居た時よりもよっぽど娼婦らしい扱いを受けているじゃないの、なんて自嘲的な考えが浮かぶ。ノアだって成人した男なのだ。いつまでも宝物のように扱ってくれるわけじゃない。心を持って行かれてはいけない。 身だしなみを整えて部屋に戻ると、そこにもうノアは居なかった。いつもフラッと居なくなる彼のことだ、おそらく自室へ帰ったか用事を思い出して出て行ったのだと考える。 洗面所で気持ちを入れ直して出て来たので、私は拍子抜けした。そろそろ夕食の時間だし、今日は国王と王子から同席するように誘われていたから、ノアも近くには居るはずだ。部屋を出てひんやりとした廊下を歩いて行く。 「リゼッタ?」 高い声で名前を呼ばれて振り返ると、アリスが立っていた。こんな時間まで彼女がこの宮殿に滞在していることを知らなかったので、私は驚く。もしかするとアリスも夕食を食べてから帰るのかもしれない。 「こんばんは、アリス。ノアを見ませんでしたか…?」 「いいえ。見ていないわ」 横たわる沈黙は重たい。ノアの従妹であるという彼女とは出来るだけ親しくなりたいと思うけれど、頭の先から踵まで遠慮なく品定めするようなその視線は、あまり友好的ではなさそうだった。 「貴女、カルナボーン王国の第二王子の元婚約者なんですって?」 「え?」 「伯父様…国王陛下が王妃と話されていたのが偶然聞こえたの。ノアが貴女のことを連れて帰って困惑してるみたいだった」 「……そうでしょうね」 ノアには恋人を紹介してくれて嬉しいと伝えていたけれど、やはり国王や王妃自身は私を受け入れてくれていない。それは難しいことだと思うが、人伝いにその事実を聞くのは辛かった。 「貴女はどういうつもりなの?」 「……どういう?」 「どうしてノアの隣に居るの?」 「………、」 ストレートな言葉は鋭利な刃物のように胸に刺さった。 どうしてお前はのうのうと王子の隣に居座るのか、彼女はそう聞いているのだ。「恋人の振りをしろと言われました」なんて伝えると冗談かと叱責されるだろう。 「私は…治療するためにアルカディアに来ただけです」 「治療?」 「身体が…弱くて、ノア様からカルナボーンよりもアルカディアの方が医療が進んでいると聞いたので…」 「そうやってノアに付け入ったんだ?」 「そんなつもりじゃ、」 アリスが向ける強い視線を前にして私は閉口した。 「ノアって優しいでしょう?誰にでもそうなの。昔から同じ、可哀想な女の子はすぐ勘違いしちゃう」 「……はい」 「貴女がいつまでノアのお気に入りで居られるか見物ね。カルナボーンに帰る日が早まらないと良いけれど」 「そうですね…」 自信に満ち溢れたアリスは眩しい。 国王を親戚に持ち、自分の将来の心配などしなくても良い。美しく整えられた容姿にはきっと多くの男たちが群がるのだろう。ふと、別れ際にアリスの頭を撫でていたノアの姿を思い出して胸が痛くなった。 また食事の時に、と言うアリスに頭を下げて、去って行く後ろ姿を見送る。小さな背丈は守りたくなるようなサイズ感で主人公のようなピンク色の髪は彼女の動きに合わせて弾んでいた。
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