46.本当の本当

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46.本当の本当

ウィリアムが部屋を去った後、私は昨日の眠気もあって横になったら眠ってしまった。少しの昼寝のはずが、目覚めると外はもう真っ暗になっていて焦る。 床に散乱していたランプの破片は片付けられ、切れた手の平には包帯が巻かれていた。右手も左手も包帯だらけで、まるでミイラ人間のようだと思う。 シグノーの亡霊を見た。 薄暗い廊下に立ち、こちらを見つめる暗闇のような目を今でも覚えている。忘れるな、と書かれた文字は警告のようでもあった。お前だけ幸せになることなど許さないと。 「………リゼッタ?」 考え込んでいた頭に声が降ってくる。少し開いた扉の向こうに、水とタオルを持ってノアが立って居た。 「もう狩りから戻られたのですね」 「うん。ウィリアムに話を聞いて…驚いた」 「すみません、」 「謝らないで」 呟くように溢した謝罪の言葉に被せるように、ノアはきつい口調で言った。驚いて固まる私の手に大きな手が重なる。巻かれた包帯の上から握られると、切れた傷口が痛んだ。 思わず顔をしかめてノアの方を見る。動いていないと人形のようにも見えるその赤い瞳は、ずっと私の手元を見つめたままだ。瞬きすらしないから時間が止まったのかと思っていたが、やがて重たい口を開いてノアは話し始めた。 「……どうか、謝らないでほしい。これはすべて俺の責任で、リゼッタは何も悪くない」 「ノアの責任ではありません」 「いや、責任はあるんだ。君を連れ出す時にナターシャに誓った、無理はさせないし大切にすると。でも実際は見ての通り、無理をさせている上に危険に晒してる」 握られた手に力が入って包帯に少し血が滲んだ。 引っ込めようと腕を引きたいのに、ノアの力は強くて動かない。仕方がないので「痛いです」と伝えると、ハッとしたように謝られた。ようやく解放された手を膝の上に置く。 ノアが言うには、部屋にあった落書きはアリスとその友人であるロビンソンの仕業らしい。彼女曰く「ほんのイタズラのつもりだった」そうで、私が見たシグノーの幽霊はロビンソンの知り合いがカルナボーン王国の土産屋で昔購入したものを拝借したのだと説明を受ける。 なるほどそうですか、とサラッと流せるほど私は出来た人間ではなかった。「どうしてそんなことを!」と怒っても良いし、貴方の従妹は頭がおかしいと責める権利も自分にはあると思う。だけれど、結局のところアリスが放った「どうしてノアの隣に居るのか?」という質問に対して、本心を答えることが出来ない私がそんな対応を取れるはずもない。 自分でも嫌になるような、情けない笑顔を浮かべて私は曖昧に頷いた。だって、笑うしかない。怒ることも泣くことも出来ない愚かな人間は、取り繕って平気な振りををすることでしか自分を保てない。 「……そんな顔をさせたいわけじゃない」 掠れた声で悲痛な表情のノアが呟く。 いつの日か、まだ私が娼館に居た頃、彼の冗談に笑った私に対してノアは「愛想笑いよりもそっちの方が良い」と言ってくれた。自分にとって都合の悪い話、避けたい話を誤魔化すように笑っていた私は、心を見透かされたようで怖かった。 「笑うしかないんです…」 絞り出した弱音を聞いてノアが顔を上げる。 「本当のことなんて言えない…貴方相手に言えるはずがない。だって貴方はアルカディアの王子だから」 「リゼッタ、そんなこと関係ないよ」 「関係あります。この国に来て、ノアはお客さんじゃなくてアルカディアの王族になりました。私は貴方に指名された娼婦じゃなくて、婚約破棄された惨めな女という現実と嫌でも向き合うことになった…!」 「………、」 話しながらボロボロと涙が溢れて来た。 それらはずっと自分が蓋をしていた感情で、押し込んで、押し込んで、誰からも見えないように隠したつもりだった。 「どうして恋人なんて嘘を吐いたんですか?そんな風に紹介したら、みんな私に注目します。どんな人間なのか興味を持って、私の後ろに貼り付いた忘れたい過去に焦点が当たる」 「……ごめん、浅はかだった」 「謝罪なんて要らない…だからもう自由にして、馬鹿みたいな虚偽の関係で私を縛り付けないでください!」 言ってしまった。 ぐしゃぐしゃになった顔を手で覆う。 成長を続ける豊かな経済を誇るアルカディア王国、その第一王子であるノアは国を継承する立場にある。彼にとっては遊べる女なんて星の数ほど居るのだろう。だけれど、私にとってノアはただ一人。 26年間誰にも渡さなかった心を、ここまで揺さぶって、揚げ句の果てには破滅させてしまいかねない相手は、最悪なことに隣国の王子だった。 最初で最後の初恋が終わろうとしている。 「ノア、貴方のことが好きだった」 出来るだけ綺麗に、未練を残さないようにスッキリと。出来ているか分からないけれど清々しい表情を意識して、暗くなった窓の外を見ながら言葉を続けた。 「偽物でも何でも、恋人として隣に居られて嬉しかった。貴方が言ってくれた甘い言葉も、全部が嘘だとしても…それでもどうしようもなく幸せでした」 反対側から見たら、それを人は不幸だと言うのだろう。私自身、気が狂いそうな幸せと不幸せを行き来しながらノアの隣に居た。彼の立場を思って身を引かなければと思う一方で、愛されていると錯覚している間は泣きたいぐらい幸せだった。 さよならをしたらどうか、幸せな記憶だけ残りますように。 「……本当に?」 ノアの声が空気を震わせた。 絶対に今、彼の瞳を見るべきではないと分かっている。強い決心は鈍ってしまいそうで私はギュッと目を閉じた。 「リゼッタ、こっちを見て」 「……嫌です」 「お願いだから、」 ひやりとした手が頬を包んで、私は恐る恐る目を開く。ノアの赤い瞳とまともに絡まった視線はもう自分の意思で外せそうになかった。 「その言葉は信じて良いの?」 「……ノア、」 「前に言ってたよね?何のために生きているか分からないって」 「はい…そうお伝えしました」 「リゼッタ、俺は君を必要としている。君が望むなら王位だって放棄するし、べつにアルカディアを出ても良い」 「何を無茶なことを…!」 抗議のために立ち上がろうとした私の手をノアが引いた。 「だから、俺のために生きて。君の残りの人生が全部ほしい。リゼッタが生きるただ一つの理由になりたいから」 真正面から私を見据えるノアの顔は真剣で、笑い飛ばすことなんて出来ない。 どうかしている。婚約破棄された挙句に娼婦になった女に愛を誓うなんて、彼は王族としての自覚が欠けている。どうしてそこまで本気になれるのか。 ノアの愛は一途と言うには歪で、その手を取ったら私はもう戻れないと分かっていた。
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