48.氷の渓谷◆ノア視点

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48.氷の渓谷◆ノア視点

「おはよう、愛しのウィリアムくん」 部屋の扉を開けて声を掛けると、非常に嫌そうな顔で溜め息が返って来た。一国の王子の挨拶をそんな風に蔑ろにできるのも、彼が古くから自分の友人であるが故だ。 クロウ家が所持する研究室の中には、薬品から精密機器に至るまで最新の設備が揃っているというから驚きだ。屋敷の中にそのような施設を作ることができるのは、彼の父が国外との貿易にも精通しているからに他ならない。 「成分解析は進んだ?」 「だいたいな。特に変わったところはない、一般に流通しているただの薬だと思うが」 言いながら彼が振るのは、透明な袋に入った数粒の錠剤。リゼッタが渡してくれたものだが、解析したところで特に問題はないらしい。 「そこに仕掛けがあると思ったんだけどね。カルナボーンで病人扱いされていた彼女が、アルカディアでピンピンしているなんて理解が出来ない」 もちろん嬉しいことではあるけれど、と付け加えながらウィリアムの手から袋を受け取った。一種の症状を抑えるために服用した薬が副作用として別の症状を発生させるというのはよく聞く話で、彼女の場合は咳の発作を抑えるために飲む錠剤が体質を更に虚弱にしているのだと思っていた。 医薬品に詳しいウィリアムに伝えたら「そんなことは有り得ない」と一蹴されたが、それならばいったいどう説明が付くのだろう。身体検査でも異常は出ず、彼女の身体は健康であると結論付けられた。これではまるで、カルナボーン王国に居る間だけ、彼女に強い負荷が掛かっているような… 「ウィリアム、どうか笑わないで聞いて欲しい」 「どうした?」 「氷の渓谷にはまだ魔女が住んでいるのか?」 「………は?」 氷の渓谷、それはアルカディア王国の中でも特に寒く、どういうわけか一年を通して雪が降り積もっている場所だ。人なんて到底住めないので、国民が寄り付くことは滅多にないが、稀に狩猟中などに迷い込んだ近隣の村の住人は「そこには人が住んでいた」と幻でも見たかのように熱心に話した。 こうした噂を経て、いつの間にか氷の渓谷は「魔女の住む場所」として人々に恐れられるようになった。一種の都市伝説のようなその存在を確かめるために、今まで何人もの怖いもの知らずが探し出そうと出掛けたが、戻って来た者は数少ない。仮に戻ったとしても、取り憑かれたように氷の渓谷の話を続ける姿は正常であるとは言い難く、気が触れたと周囲の人間は悲しんだ。 「車が走って電気が使える時代に魔法の話をするなんて馬鹿げている。お前までおかしくなったのか?」 「その言い方は止めてくれ。まるで俺以外の人間を含んでるような物言いだから」 「……すまない。ルネはまだ、」 「ウィリアム」 「……分かったよ」 渋々といった様子でウィリアムは顔を背けた。 アルカディア王国を統べるイーゼンハイム家が、国民に向けてその子供たちの成長を公開しなくなったのはいつからか。もう二十年は前の話ではないかと思う。新しい王族の誕生に湧いた国民たちも今では、滅多に姿を現さない王子たちの存在など気にも掛けていないだろう。 ノアとルネ、猫のような名前を授かった二人の王子はやがて大人になった。一人は王位を継ぐ者として、もう一人は強い反逆心を持った異端児として。 双子の彼らが18歳を迎えた夜のこと、自分の父親を手に掛けようとした弟は周囲の人間に取り押さえられた。今でも忘れないのは彼が言っていた「氷の渓谷へ行けば力が手に入る」という言葉。まだ若い青年だったルネは、取り囲む大人たちに動きを封じられながら、涙を流してそう言った。 「もう十年になる。無事に死んでくれていたら良いが」 「……氷の渓谷なんて子供騙しの伝説だ」 「そうだよな、」 馬鹿げている。しかし、リゼッタをカルナボーンに返すことに強い不安もあった。また、彼女の身体が弱くなってしまうことがあったら?側で常時様子を見れない自分には何も出来ない。ナターシャに頼んだところで、出来ることは限られているはずだ。 そもそもの話、リゼッタを娼館に返したくなかった。気持ちを伝え合った今、彼女も自分と同じ方向を向いているだろう。どうして愛する女を進んで娼館に送り届けなければいけないのか。 約束を反故(ほご)せずに、どうにか彼女を手元に置きたい。 期限切れになる前に回答を見つける必要がある。
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