05.ノアに教わるキス

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05.ノアに教わるキス

「初めまして、ノアだよ。今日はよろしく」 「あ、リゼッタです…よろしくお願いします」 ナターシャが去った今、部屋には私とこの若い男の二人。面を付けているから顔の上部は見えないものの、顎のラインや瞳の感じからしてとても美しい男性だと分かる。 シグノーの飛び出た顎や鷲鼻を思い出して、頭を振った。その容姿すら愛嬌があると思った日もあったのに。 「今日が初めてなんだって?」 言いながらノアは面を外す。 思った通り、作り物のように綺麗な顔が現れた。透き通るような銀色の髪にすべてを見透すような赤い瞳。しかし、その喉元は男性的で色気がある。 不思議そうな顔をしたノアを見て、慌てて口を開いた。 「はい、初めてです。精一杯取り組むのでどうぞ宜しくお願いいたします」 腰を折ってお辞儀をする私を見てノアは「堅いね」と言って噴き出す。笑うと目尻に皺がよって少し仔犬のような顔になる彼を見て、無意識にかわいいと思ってしまった。 ノアはどこか異国を思わせるゆったりとした白い服を着ている。裾が膨らんだ動きやすそうなパンツに同じく白のシャツ。あまりカルナボーン王国では見掛けない服装だ。 しかし、職業やプライベートな話はこちらから聞き出すのはタブーな筈だし、彼とてただの娼婦相手に語りたくないだろう。娼婦との中身のある会話なんて誰も望んでいない。 「……ベッドに移りますか?それともお風呂へ?」 「ははっ、積極的だね。そんな急ぐ必要ないよ」 ノアは笑いながら「俺は朝まで君の時間を買ってる」と説明してくれた。朝までというと、つまりそれは明日の午前中という意味だろうか。よくよく時間的な拘束について確認していなかったが、そんな長い試合になるとは知らずにすぐ眠りに着ける気持ちで来てしまったことを後悔する。 「まずはリゼッタのことが知りたいな」 伸びて来たノアの手がくるくるに巻いてもらった私の髪に触れる。長い指が毛先を弄ぶ間、私は生きた心地がしなかった。 「……な、何が知りたいですか?」 「どうしてこんな場所で働くことになったの?」 「それは…、」 「言いたくないならパスでいいよ」 「………パスで」 いきなりパスを使ってしまい申し訳ない気持ちで一杯になるけれど、素直にすべて話すときっとこの場を白けさせてしまう。せっかく日々の疲れを癒しに来た男たち相手に話して楽しい話ではないから。 「じゃあ、すきな週末の過ごし方は?」 「え?」 「趣向を変えてみたよ。答えやすいでしょう?」 ノアはそう言ってニコニコ笑う。 「そうですね…今まであまりした事はないのですが、飽きるまで外を散歩してみたいです」 「……へえ、簡単そうだけど?」 「私には出来なかったので、」 それ以上の追及を避けるように笑って誤魔化した。 厳しい家庭で育ったんだね、と言うノアの言葉を私は否定せずに微笑む。いつまで持つのか分からない、この身体の話もこういった場ではタブーだ。 「んーと、じゃあもう少し知るためにキスしようか」 「………キス?」 聞き返す私の頬にノアの手が触れる。 婚約者だったシグノー以外の人間が私に触れているという現状に私は背徳感のような感情が湧き上がる。しかし、婚約はもうとっくに破棄されたのであって私は自由の身だ。 考えなくて良い、考えてはいけない。悲しみの沼に引っ張られそうになる思考を振り切るように目を閉じた。 「……っん、」 ノアの柔らかな唇が重なる。 男の人の唇もこんなにふわふわしているんだ、と今更のことを私は頭の隅で思う。 やがて確かめるように、ノアの舌が唇の隙間から口内に侵入して来て、私は思わず腰を引いた。その怯えに気付いたのか、ノアの手が背中に回る。逃げ場のない甘い監獄の中で、表面だけ強く仕上げてもらった娼婦はもう泣き出したくなっていた。 「…ふ、ん……っあ」 舌の動かし方なんて分からないし、私はシグノーとこんなキスをした覚えはない。これは私が何度も交わしてきたキスではない。経験に基づく正解から大きく外れている。 ようやく離れた唇は濡れた糸を引いて、ノアはそれをペロリと舐めた。 「リゼッタ、可愛いね。好きになっちゃいそうだ」 ヴィラの言葉が頭の中でサイレンのように響く。 見つめ続けると落ちていくような恐怖に、目を逸らした。
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