60.ノアとルネ

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60.ノアとルネ

静かな夜だった。 深夜に娼館に戻ってからは、体調を崩したり、荷解きに追われたりで十分に落ち着く時間もなかった。一晩も経てば流石に私も現実を理解できて、ノアはもういないという悲しみが胸を締め付けた。 今日の昼頃に再度医者に診てもらったが、手首の治りはかなり良いようで、もうギプスも取れた。「無理はしないように」というナターシャの有難い気遣いのお陰で、まだ一週間ほどは様子見で休みを頂くことができたが、何をしたら良いか分からない。横になったり窓の外を眺めたりを繰り返しながら、長い長い夜の時間を過ごしている。 その時、窓に石が当たったようなコツンという音がした。 もしかすると、ノアが戻って来たのかもしれないと期待する。この期に及んで能天気な私の頭は、まだ彼が迎えに来ることを半分信じていた。身体の療養も思うように進まず、恋人関係だって中途半端になったまま。ペテン師のようなノアの言動を私はこんな時でも少し信じてしまうのだ。恋は盲目なんてよく言ったもので、盲目どころかだいぶ脳が侵食されている。 窓の方へ近付き、鍵に手を掛ける。 ガラス扉を内側から押すと夜の匂いがした。 (ほらね…聞き間違いだわ) 姿の見えないノアを探すことを諦めて、部屋に戻ろうとした時だった。開け放った窓の木枠に手が掛かり、男が顔を覗かせた。思わず叫びそうになった私の口を、部屋に飛び込んで来た男が押さえる。 その髪は美しい銀色で、頭は錯覚しそうになった。 しかし、月の光が照らしたのは赤い双眼ではなく左右非対称のオッドアイ。黄色く変色した左目の上には深い傷がある。 「貴方……誰なの…?」 男は手を口元に当てて小さく笑った。 ノアによく似た容姿の男は、まるでレプリカのようだ。 「水晶玉が割れたから、本体の様子を見に来たけれど、まさか君だったなんてね」 「………水晶玉?」 「まあ探しに来る手間が省けてラッキーかな」 「教えて、何の話をしているの?貴方は誰?」 開け放たれた窓から一際強い風が吹き込んだ。 「僕の名前はルネ。イーゼンハイムと言えば分かる?」 「イーゼンハイム…?」 「ノアの双子の弟で、アルカディアの元第二王子だよ」 「……そんな話…聞いたことがないわ!」 「じゃあ所詮、君とノアはその程度の関係なんだ」 興味がなさそうに答えて、ルネは私の部屋の中を散策しだす。整理が出来ていないトランクを閉じると私に手渡した。 「旅するのは好き?少し寒い場所なんだけど」 「……え?」 「大丈夫、きっと気に入るよ」 唖然とする私の後ろで、ノックの音がした。 ルネも驚いた顔でそちらを振り返る。返事をしない間に開いた扉の向こうから現れたのはナターシャだった。 「リゼッタ、夕食の準備を………ノア?」 ナターシャは老眼鏡を掛け直してその姿をよく確認しようとしている。月明かりが差し込むだけの、薄暗い部屋の中は見えずらいのか、小さな手が電気のスイッチを探して動いた。 「わぁ、ナターシャだ!久しぶりだね」 「その声…ルネか!?」 「うん。ここで会えるとは思わなかったな」 「あんた生きてたんだね……」 「残念なことに、皆の期待を裏切って悪いね」 低く笑いながら、ルネは私の身体を担ぎ上げる。 「どこへ行くんだい……!」 「どうせ迎えに来るんだ、ノアに伝えてくれない?」 「ルネ!」 「傾国の娼婦を取り戻したければ、氷の渓谷へ来いと」 ルネは私を抱えたまま、開きっ放しの窓から跳んだ。 落下を覚悟してギュッと目を閉じるも、なかなか衝撃を受けない。不思議に思って恐る恐る目を開けたら、そこは見慣れた娼館の庭ではなく、ゴツゴツした岩肌が目立つ山の上。 闇夜に紛れる山々の間に細い隙間が存在し、隙間からは僅かだが光が漏れている。 「ノアの女を招待するのは初めてだ。緊張するね」 「……何を言っているの?」 「君の価値を認めてるんだよ」 「価値…?」 「ようこそリゼッタ、氷の渓谷へ」 ルネが再び私を抱き寄せる。 周りの景色が姿を消して、一瞬で明るい光に包まれた。 ◆傾国…君主の寵愛を受けて国を滅ぼす女のこと。
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