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61.月と闇夜
顔面に飛び散った血を、脱いだシャツで拭きながら砂利道の上を歩く。ここが田舎町でなければ近隣の住民に通報されかねないだろう。リゼッタの実家訪問ということで、楽しみにはしていたが、拍子抜けするほどにクズな親だった。
隣を歩くウィリアムは馬車を探しているのか、周囲をキョロキョロしている。
「……ノア、お前はいつもこんなことを?」
「いつもはこれ以上だよ」
今日はお前が居たから止めたんだ、と伝えると冷静を貫き通す彼の顔に少し困惑が浮かんだ。
嘘ではない。ウィリアムがアストロープ家の屋敷の中に入って来なかったら、たかが舌一枚では済んでいない。養子と言えども自分の娘をいやらしい目で見る義父には、特に怒りが湧いた。あのまま生かしておくのは惜しい。どうか、渓谷の魔女が成敗してくれることを願う限りだ。
半裸のような姿で入って来た自分を見て、顔を赤らめる宿屋の受付に手を振りながら部屋へ戻る。早く着替えて娼館へ行かなければいけない。
やっとリゼッタを身請け出来る。
そう思うと先程まで騒いでいた血が幾分か落ち着いた。
◇◇◇
「えっと……何て言ったの?」
呆気に取られて聞き返すと、ナターシャは静かに同じ言葉を繰り返した。
「ルネがリゼッタを連れて行った」
「やだなーもうボケたの、おばあちゃん?」
「部屋に来たんだ…止められなかった」
「冗談キツイなぁ」
腕を組んで後ろを振り返る。
ウィリアムも信じられないという顔で固まっている。そりゃあそうだろう、十年も前に生き別れた弟が、まさか今更現れるだなんて。
今でも思い出すのは、ルネが父親の寝込みを襲おうとした、あの日の夜のこと。甘い誕生日ケーキで胃もたれして眠りが浅かったこともあり、廊下を歩く足音に気付いたのは自分だ。自室ではなく両親の寝室へ入って行く後ろ姿に嫌な予感を覚え、急いで後を追った。目に入ったのは眠る国王の喉元目掛けてナイフを振り下ろそうとする弟。咄嗟に投げた陶器の水差しは、ルネの左目に直撃した。
彼が失明したかどうかは分からない。騒ぎで起きて来た大人たちに取り押さえられ、真っ赤な血と涙を流しながら、ルネは兄である自分を睨み付けて言ったのだ。
ーー『氷の渓谷へ行けば力が手に入る』と。
救急で医者に運び込まれたルネは病院で入院することになったが、翌朝にはその場から消えていた。王妃はショックで寝込むことになり、普段は太陽のように明るい国王も息子から命を狙われた事実を深刻に受け止めているようだった。
暫くの間、王宮は、月が隠れた闇夜のように静まり返った。
「……そうか、じゃあリゼッタは氷の渓谷に居るんだ」
「ノア!まさか行く気じゃないだろうな?」
焦ったようなウィリアムの声が飛んでくる。
「行かない理由はないよ」
「氷の渓谷なんて伝説なんだよ!実在しない」
「ルネが生きていることが何よりの証拠だろう」
「でも、」
「べつにお前に付いて来いなんて言わない。今まで世話になったことには感謝してる。ここから先は家族問題だ」
「ノア…!」
ナターシャに礼を伝えて娼館を出た。
カルナボーン王国の郊外からアルカディア王国の宮殿、宮殿から氷の渓谷までの移動時間を考える。準備を含めたら三日は見た方が良いだろうか。その伝説的な場所に時間の概念が存在するのかは分からないが、リゼッタと三日も会えないことは悲しい。
「あの時、殺しておくべきだった」
何処かで息をする自分の片割れのことを思う。
月は今も嘲るように夜を照らしていた。
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