67.渓谷の底

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67.渓谷の底

時間にしてはほんの数秒程度。 ただ唇が重なっただけ。驚きと緊張で心臓の鼓動が速まるのを感じながら、ルネの目を見つめた。 「……何…するんですか、」 「味見だよ。ノアの女がどの程度か気になった」 「ふざけないで!」 「強国の王子がその身を投げ打ってまで愛する女だ。結婚する気はないにしても、面白みがあるのかと思って」 普通すぎて拍子抜けした、とルネは溜め息を吐いた。 「貴方…ぜんぜんノアに似てないです」 「そう?一卵性だからそっくりなはずだけど」 「見た目の話じゃありません」 「………、」 「ノアは貴方みたいに故意に人を傷付けない。相手を思いやる優しさを持っているんです」 「なるほどね、君が如何に無知かを教えてくれてどうもありがとう」 ルネは冷ややかに私を見下ろす。 その視線に屈しないように暫くの間、睨み合った。 渓谷を案内してくれるというから、ルネに言われるがまま付いて来たけれど、こんな風に啀み合うぐらいなら部屋に居ればよかった。しかし、ノアよりも感情の変化が分かりやすいルネを前に、私自身も自分を曝け出して喋ることが出来ているのも事実。 シグノーの前でも、アストロープ子爵夫妻の前でも、自分の気持ちを強く表すことはなかったので、それは私にとって新鮮な経験だった。 「……何笑ってるの?」 訝しむようなルネの言葉に顔を上げる。 「ごめんなさい。あまりこんな風に気持ちを人に対してぶつけたことがないので、おかしくって…」 「なにそれ…変なの」 「ルネのことは好きになれそうにないですが、ルネと話していると素の自分になれます」 「………調子狂うなぁ」 ルネは一転して困ったような表情を浮かべて、また廊下を歩き出した。建物の外に繋がる扉を開けて、私を先に通してくれる。 上空を見上げると、遥か遠くに渓谷の入り口があった。今私が居るこの場所は渓谷の底、つまり本来川が流れている部分になるが、かつて川面であったと思われるそこは氷に閉ざされて冷気を放っていた。この様子では生き物の生息も難しいだろう。 「氷の渓谷では、食糧などはどうしているのですか?」 「時々は外へ買い物に出るよ。ジゼルが本土の馬鹿ども相手に何でも屋みたいなことしているから、それで金は手に入るんだ」 「……何でも屋?」 「君の義両親が頼んだ呪いとかだよ。世の中魔法を信じない人間は多いけど、誰かを呪いたい人間は多いみたいでね」 「………、」 私は今だにルネの言葉が分からなかった。 アストロープ子爵夫妻がそんなことを自分に対してするとは思えない。だって私がシグノーと婚約するまで、つまり25歳まで私は彼らと共に居たのだ。 「信じられないだろうけど、君が思うより人間はもっとずっと汚いよ。それはノアだって同じだ」 「……そうでしょうか」 街灯の光を受けて、キラキラと輝く凍てついた川面を見ながら私はぼんやりと返事をした。
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