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77.最後の仕事
「でさ、その時にシェリーがヘアスプレーを噴射したの!」
「………そうなんだ…」
「リゼッタ、話聞いてる?」
「ごめん…考え事しちゃってた、」
心配そうに顔を覗き込むヴィラに頭を下げた。
窓の外に浮かぶ月が目に入る。
氷の渓谷を出て、私とウィリアムは負傷したノアを連れて近隣の村を目指した。けれどもノアは村に着く前にその意識を手放してしまった。後のことはあまり記憶になく、何の役にも立たない私はただ泣くだけで、テキパキと動くウィリアムに頼りっきりだった。
ノアがどうなったのか分からない。車に乗せられて、ウィリアムに告げられた住所へ行くと、また別の男が私を国境まで運んだ。呆然とした状態で戻って来たのは、見慣れた娼館。言葉も出ずにただただ涙を流す私を、何も言わずにナターシャは中へ入れてくれた。
あれからもう、ひと月が経っていた。
終始沈んだ雰囲気の私を気遣ってヴィラが時折部屋を覗いてくれる。ノアに起こったことなんて、とてもじゃないけれど口に出来なくて、私はぼんやりした日々を過ごしていた。追究して来ない彼女たちの優しさに甘えて、辛い記憶の中に一人で閉じこもっている。客も取らないくせにご飯だけ食べて居候する私はさぞかし邪魔者だろう。
手首はもう完全に治って、カルナボーン王国に居ても健康面も問題がなくなっていた。今まで私を悩ませていた咳の発作や突発的な高熱も嘘のように消えた。ルネの言葉を信じるならば、それらは本当に呪いだったのかもしれない。
部屋をノックする音がして、ヴィラに断って扉へ向かう。
開いた扉の向こうにはナターシャの姿があった。
「リゼッタ、あんたに客だよ」
「……すみません…仕事はまだ、」
心の整理がついていない。娼館に居ながら客を取らないなんて通らない我が儘だと分かっていたけれど、ノアを好きな気持ちを抱えたまま、誰かを受け入れることなんて到底出来なかった。使い物にならない娼婦で申し訳ないとは思う。
「良いから行きな、二階の奥の部屋だ」
「ナターシャ…」
「うんとサービスしてやんな、いいね?」
老眼鏡の奥で商売人の顔をするナターシャに背中を押されながら、階段を降りて行った。化粧をしていたから良いものの、こんな意気消沈した女を前にすると客のヤル気も萎えるのではないだろうか。
更衣室で、久しぶりに着るベビードールの似合わなさに自嘲しながら、また娼婦として働こうとしている自分を情けなく思った。夢を追い求めた人間の末路がこれだ。
いっそのこと、いやらしく下品な女を演じてしまおうか。一日中泣いているウジウジした女よりは幾分かマシだろう。馬乗りになって服を脱がせて、枕を押し付けておけば泣いた顔も見えないかもしれない。
馬鹿なことを考えながら、部屋の扉を押した。客の顔を見て逃げ出したくなったらどうしよう、などと考えて部屋の中を覗いた瞬間に息が止まった。
「久しぶりだね、リゼッタ」
私の頭はもう駄目になったのかもしれない。とうとう幻想すら見えるようになったから、もう末期。ナターシャに伝えるべきだ、今日はもう働けないと。こんな状態で接客なんて出来ないと言わなければ。
「どうしたの?お化けでも見たような顔してる」
「………ノア?」
部屋の中心にノアが立っていた。
いつもの笑顔で、両手を広げて誘うように。
私は力が抜けたようにその場に屈み込んで、頭を叩く。悪い妄想が出て行くようにポカポカ叩き続けていたら、近付いて来たノアの手が腕を掴んだ。
同じように姿勢を低くしたノアが私の顔を覗き込む。
「本物のリゼッタだ」
「………っ」
「ごめんね、迎えに来るの遅くなって」
「ノア…どうして、生きて…、」
「君に言い残したことがあったからさ。まだ死ぬに死にきれなくて、地獄から戻って来ちゃった」
大きな手が顔を包んだ。
それは私が安心する温かな体温。
「リゼッタ、俺と結婚してほしい」
びっくりして赤い瞳を見つめた。透き通る銀髪の向こうでノアの顔は真剣で、私は速まる鼓動を感じながらただその目を見続ける。ノアは柔らかなカーペットが敷かれた床に跪いて、私の手の甲に唇を重ねた。
「ずっと言いたかった。魔女に聞いたと思うけれど、俺は君の前で自分のことを取り繕うのに必死だった…ごめん」
「………、」
「全く綺麗な人間じゃないし、君に触れる資格も無いかもしれない。嫌なら逃げても良いよ」
その時はなるべく俺が傷付く言葉を投げて、と無理な難題を押し付けてノアは悲しそうな目をする。
ノアの右手にはまだ白い包帯が巻かれていた。きっとお腹にも大きな傷が残っているのだと思う。まだ一ヶ月少し前の出来事で、完治なんて到底していないはずだ。
私は膝を突いたまま項垂れるノアの頭に触れた。
猫のような銀色の毛を撫でる。
「もう、誰も殺めないでください」
「うん。誓うよ」
「約束はしたくないです…私たちは守れないので」
「じゃあ君が見張ってて。ずっと側で、俺が悪さをしないように見ていて」
「……ノア、私…貴方の言葉を信じても良い?」
柔らかな笑顔で頷いてノアが私の身体を抱き締める。
私は目を閉じて、口付けを受け入れた。あの日、最後に交わしたキスを上書きするように温かな体温が流れ込んで来る。もう何処にも行かないようにノアの背中に手を回した。
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