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01.リゼッタの悲劇
その日は朝から咳が止まらなかった。
乾いたような咳が何度も出て、肺は焼けるように痛んだ。常備薬を飲んだところで発作は落ち着くわけもなく、数分に一度死にそうな顔をして咳込む私を見て、ルーシャ家のメイドたちは気の毒そうに距離を取っていた。
したがって、婚約者であるシグノー・ド・ルーシャから夜の誘いが来るなんて思いもしなかった。こんな明らかな病人を抱くほど彼の頭のネジが緩んでいるなんて常識的に考え難かったし、そこまで無慈悲な人間だとは知らなかった。
「……すみません、今日は咳がひどくて…」
「大丈夫だ。すぐに終わらそう」
「シグノー様…どうかお許しください」
拒絶の言葉が聞こえないようにシグノーはその手を私の胸元に差し込んで来て、思わず逃げるように身を捻った。
「………リゼッタ、何の取り柄もないお前を婚約者として皇室に招き入れたのは偏に第一王子である僕の兄が皇太子妃と不仲であるからだ」
「………、」
「父上は後継者が生まれないことを恐れている。僕は早く期待に応えたい」
「シグノー様のお力になりたいのは山々ですが、本日は本当に体調が優れないのです…申し訳ありません」
これまで、シグノーの要望には必ず応えてきた。
それが子爵家から婚約者に選ばれた自分の務めであると分かっていたし、拒否権などないと思っていたのだ。
しかし、どうしても今日はこれ以上の無理をすることはできない。ヒューヒューと喉を鳴らしながら荒い呼吸を繰り返す自分は、誰がどう見ても病人だ。こんな状態の私をシグノーは出来るかどうかも分からない後継ぎのために抱くというのか。
「そこまで無情な女だとは思わなかったな」
シグノー・ド・ルーシャは長い顎を撫で付けながら私のことを見下ろした。その冷たい目を見て私は身を小さくする。
「リゼッタ、君のように僕を尊重することができない女性は婚約者として相応しくない。出て行ってくれ」
「……そんな!」
体調を理由に夜の誘いを断っただけ。それも今回に限っての話だ。どうして彼はそこまで怒っているのか。私を気遣うことなど望んでいないから、ただ今日だけ放っておいてくれたら良いのに。
縋るようにシグノーの腕を取ると、汚いものに触れられたように彼は私の手を叩いた。
「もともと君は身体が弱過ぎた。母上にも言われたよ、出来損ないを摑まされたとね。今晩中に荷物をまとめてほしい」
「急過ぎます、体調が戻れば…明日になれば私も…!」
「病人を抱いても何も興奮しない。いっそ娼婦にでも弟子入りして男をその気にさせる方法でも学んで来たらどうだ?」
「………っ」
何も言い返せなかった。
物心ついた時からずっと薬漬けの毎日だった。外で遊べる時間は僅かで、少しでも日に焼けると翌日は高熱が出て寝込むような惨状。
こんな私でも、必要としてくれるならばと喜んで承諾した縁談だったのに。
「………承知いたしました」
頭を下げる私を見て満足したのか、シグノーは部屋を出て行った。
カルナボーン王国の第二王子であるシグノーから縁談の申し出があった時、育ての親であるアストロープ子爵は妻のケイトと手を取り合って喜んでくれた。決して裕福ではない没落貴族の家で養女として育てられた私が、様々な習い事をできたのは将来上流階級の殿方に見初められて結婚まで漕ぎ着くため。すべてが白紙に戻った今、彼らはどう思うだろう。
持って来た大きなトランクケースはすべての私物を入れてもまだ隙間があった。シグノーから貰ったのは最初に来た日に贈られた小さな銀の皿だけ。迷った末に、置いて行くのも嫌味のようだと思ってトランクに詰める。
思えば、不仲とはいえど第一王子は皇太子妃によく贈り物をしていた。薔薇の花束を抱えて「飾る場所に困るわ」と言う彼女を見る度に、胸を刺すような痛みを感じていたのは事実。本当のところ、羨ましいと思わなかった日はない。
こうして、私の愛のない婚約生活は幕を閉じた。
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