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58.豚の目玉とフォーク◆ノア視点
小さな田舎町は、夕食の時間を過ぎると通りからほとんどの人が姿を消した。
昼に食べた鶏の肉がまだ腹に残っているような苦しさを覚えながら、呼び鈴を押す。使用人が居ないのか、そもそも雇う金がないのかは定かではないが、あっさりとダグナス・アストロープ本人が姿を現した。
「……なんの用だ?」
不審そうに片眉を上げる太った男を前に、出来るだけ愛想の良い笑顔を意識して口を開いた。
「初めまして、私、ローズフィールド社長から命じられて集金に参りました。今はお時間宜しいでしょうか?」
「ローズフィールド…?」
「貸付金の回収ですよ」
ハッとしたようにダグナスは目を見開く。
その小さな目玉はフォークを刺せば簡単に失明してしまいそうだ。
「とりあえず、中に入れて貰えませんか?」
「……あ、ああ。もちろん…」
おずおずと振り向いて家の中へ入って行く。門前で隠れて待つウィリアムに合図をして、その後に続いた。何かあったら彼の手を借りたいが、出来れば自分の力で終わらせてしまいたい。
アストロープ子爵の屋敷には、まるでリゼッタなど存在しなかったかのように彼女の写真は一枚も飾られて居なかった。夫人との結婚式の写真から現在に至るまで、旅行先で撮られたのか夫婦の記念写真だけが壁に並べられている。
案内された応接間に入り、古びた革張りのソファに座った。
「暫く支払いが滞っているようですね?」
「ああ……違うんだ、明日には払える」
「どうしてそんな虚言を?」
「当てがあるんだ。娘が…いや、娘だった女が居て、今は娼館で働いているらしい。先月はこれぐらいの時期に金が届いたから、もうすぐ届くはずだ…!」
必死に身振り手振りで状況を説明するダグナスを見て安堵する。よかった、彼がもしもただの善人だったら、ここへ来たことは無駄になってしまう。
縁を切った養子が送ってきた金を自らが膨らませた借金の返済に当てる男。手に掛けても罪は被らないだろう。強く握った拳を顔面に振り下ろすと、醜い叫び声と共に鼻血が流れた。
「嘘はいけませんよ、ダグナスさん」
「本当なんだ!リゼッタという名前で働いてる、金の送り元に調査会社を頼って調べたんだから間違いない!」
「……悪知恵だけは働くんですね」
「君が望むなら、ただで相手をさせる事もできる!俺が言うのも何だが、なかなか良い女だ!胸も成長して肌も綺麗なんだ。そうだ、案内してやろう!だから俺にも少し抱かせ…」
言い終わらない内に腹を蹴り上げた。
あの慎ましい聖女のようなリゼッタの親というにはあまりに下劣な男だと思う。善人ではないにしても、ここまで救いようがないと呆れてしまう。
リゼッタは、この男の元で育ち、シグノーと婚約を結んだというのだ。それはひどく残酷な事実。
「アストロープ子爵夫人、こちらへ来てください」
ヒッと短い悲鳴を上げて妻であるケイト・アストロープが姿を現した。その背後には腕を締め上げたウィリアムが立っている。
「……来なくて良いと言ったのに」
「お前の暴走を止めるのも友の役目だ」
至極冷静な声で言われると言い返す言葉もない。
ボタボタと鼻血を垂らすダグナス・アストロープと怯えた顔で震えるケイト・アストロープを並べて床に座らせた。ふと見るとせっかく新調したスーツの袖に血が飛んでいる。この程度のことで汚してしまったのは惜しい。
「貴方の娘さんは明日送金して来ません。どうしてか分かりますか?」
「いいや、送ってくるはずだ」
「彼女はこの二ヶ月ほどの間、僕と共に居たんです。娼館で働いてなど居ない」
「嘘だ!何を証拠に…!」
「……貴方が手紙を送ったのではないのですか?」
問い掛けに対して、ダグナスは首を傾げる。その表情は演技などではなく、本当に訳が分からないといった顔だ。
カルナボーン王国へ発つ前に届いた差出人不明の手紙のことを思い浮かべる。リゼッタの存在を知るような口振りのその手紙は、てっきりアストロープ子爵夫妻が送って来た嫌がらせかと思っていた。何処からか王族である自分と彼女の関係を聞き付けて、金を引き出すために脅しを掛けたのかと。
「アストロープ子爵、いや…お義父さんと呼ぶべきかな?」
「………は?」
「僕はリゼッタの新しい恋人です。まだ婚約はしていないけれど、絶対に結婚するつもりです」
「頭がおかしいんじゃないのか!?あいつはこの国の第二王子から婚約破棄された女だぞ!娼婦にまで落ちた女に目を付けるなんて、よっぽど卑しい身分なんだな!」
唾を吐き散らしながらダグナスが大きな声で喚く。
「僕はアルカディアの第一王子なので、身分的には問題ないかと思いますよ」
「……アルカディア?」
「酒で溶けた貴方の頭に地図が入っているか不安ですが、一応カルナボーンのお隣の国です」
「なんだって、」
大きく開いた口に拳銃を捩じ込んで一発、と行きたいところだが殺すほどの脅威ではない。それにまだ聞きたいことの本題には入れていない。
「お義父さん、教えてください。リゼッタはこの国に居る間とても病弱です。どうしてでしょう?」
「……っは!傑作だわ!」
空気を切り裂くような高い声を上げたのは、それまで黙り込んでいたケイト・アストロープだった。
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